じぶん更新日記1997年5月6日開設Y.Hasegawa |
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【思ったこと】 _10131(水)[教育]ネイティブスピーカーが英語を教えに来ると..... 国際学会の発表準備に関連して、英語教育に関連したサイトをいくつか巡回してみた。その中で、全く偶然のことであったが、1987年に開始された“The Japan Exchange and Teaching (JET) program”について、いろいろな論評を集めた英文サイトがあった。 こちらによれば、「JET」とは、“『語学指導等を行う外国青年招致事業』の略称で、日本政府の後援による国際交流プログラムであり、地域レベルの国際交流を促進し日本における外国語教育を改善するために設けられ」た制度であるという。最近の活動内容についてはまだ調べていない。 1987年当時に来日したAET(assistant English teacher)の声の中には、受け入れた学校側の英語教師とのteam-teachingがうまくいかなかったことを指摘したものがあった。学校で使用している教科書が会話型の英語教育に向いていないことがその一因。日本人の英語教師は授業中に殆ど英語を喋らないこと、そのほか、根本問題として、大学入試のための受験英語の弊害などが指摘されていた。 このほかにも、中高校における日本の英語教育についていろいろな問題点が指摘されていた。これらは殆ど改善されないまま21世紀に持ち越されてしまったように思える。 ところでこの連載を始めた1999年10月23日頃、私は、多くの日本人が英語を喋れない/書けないことの原因として、 学校で教わるということもあって、誤反応には学習の初期の段階から罰(=テストで減点される、先生から矯正されるなど)が与えられる。このことが結果的に、「話す」、「書く」という反応全般を自発しにくくしているのではないかという点を指摘した。これについては、今年度、私のゼミの学生が実験的な検証に取りかかっているところだ。 しかし、私の主張は、日本人がごく自然に発する「日本型英語」を野放しに強化せよということではない。日本語と英語の根本的な違いがどこにあるのか、ということをきっちりと解明し、遅くとも高校、できれば中学2年ぐらいの時期に徹底的にそれを教え込むことがぜひとも必要ではないかと最近特に思う。一例をあげれば昨年11/20の日記で取り上げた“英語は「モノ」、日本語は「コト」という発想”あるいは、そのルーツとなるく11/28に取り上げた“なぜ I am boy.でいけないか。日本語では当然「ぽくは少年です」でよい。”という問題意識。こういうところを徹底的に洗い出せば、単なる実用英語ではない教育、ものの捉え方や考え方の枠組みの相対性という根本的な問題にふれることができるはずだ。 元の問題に戻るが、そういう原点に立ち返って英語コミュニケーション能力を高めようとするならば、英語のネイティブスピーカーをたくさん招くとか、日本人教師の海外研修機会を増やすという方法では問題は解決しない。11月の国際学会に向けて、学習心理学の立場からこの問題を考えていきたいと思っている。 |
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別連載の関連記事です 【思ったこと】 _10220(火)[心理]象牙の塔とアクション・リサーチ(3)「外国語効果」 今回は、柳瀬氏が“「外国語効果」に関する英語教育の立場からの批判的考察(2000/11/1) ”の中でふれられている「外国語効果」について私なりの意見を述べたいと思う。 ここでいう「外国語効果」とは、 不慣れな外国語を使っている最中は、その外国語を使うのが難しいだけでなく、思考力も一時的に低下するというもの。残念ながら、私の手元には高野氏の論文が一編もなく、原典に即して意見を述べることができないが、一般論として次のことは言えるかと思う。
では、それらの事例を人工的に示すことにはどういう意義があるのだろうか。いちばんの効用は、我々が当たり前と思っている事柄を覆すこと、もっとくだけた言い方をするならば、「世間もしくは学界をビックリさせる」ことにあるのではないかと私は思う。 例えば、
初めの問題に戻るが、もし我々が 不慣れな外国語を使っている最中でも、言語的要因が殆どない「純粋な」思考は決して低下しない。という常識観念を持っているならば、「外国語効果」を示す実験事実は大きな発見となる。逆に、低下すると思っているならば、「ああそうですか」と思うだけのことだ。 けっきょくのところ、「外国語効果」は、起こる場合もあるし起こらない場合もあると考えるべきだろう。重要なのは、もし起こるとしたらどういう文脈の中で起こるのか、どいういうタイプの思考行動については起こりうるものなのか、その効果の及ぶ範囲や程度を現場に即して調べ上げていくことである。「外国語で重要な交渉を行なう場合は、その外国語をある程度は話せる人でも、日本語と同じぐらい流暢に使いこなせるのでないかぎり、通訳をたてたほうが賢明であろう」という高野氏の一般向けの示唆の妥当性も、そういう枠組みの中で検討されるべき課題であろうと私は思う。 |
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【ちょっと思ったこと】
「2001年2月27日}幼稚園からの英会話教育 2/27の朝日新聞によれば、大阪狭山市は26日、4月から市内の計21の幼稚園と保育所、小学校で英会話教育を始めると発表した。自治体が就学前の幼児に一律に英会話教育を実施するのは異例であり、文部科学省幼児教育課も学習成果を注視していきたいと述べているという。 日本語が固まっていない段階からのバイリンガル教育については、1つのコンピュータに2つのOSを入れるものだとの批判もあるが、今回の記事を読んだ限りでは、その心配はまず無さそう。なぜなら、就学前は1回30分で年間24回程度、小学校は1回45分で、1〜2年は20回、3〜4年は25回、5〜6年は30回。むしろこの程度の回数で何かが身につくものかどうか。たぶん、お遊戯かアコーディオンのひき方を習う程度で終わってしまいそうな気がする。 |
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【思ったこと】 _10301(木)[英語]21世紀の英語教育を素人なりに考える(1)岡山大の英語入試問題 先日2/25に行われた前期入試の問題が翌日の地元新聞で紹介されていた(代ゼミのサイトからも原版の画像を入手することができる)。 このうちの1番目の問題は英語学習に関する話題。「reinforcement 強化」などという注釈があったために目にとまった。とにかく、入試問題に「強化」という言葉が登場したのは喜ばしいことではある。ここでは、英語問題としての解説ではなく、問題に使われた英文のロジックについて考えてみたいと思う。 まず問題文の最初の部分をざっと訳してみよう。 Language acquisition has long been thought of as a process of imitation and reinforcement. Children learn to speak, in the popular view, by copying the utterances heard around them, and by having their responses strengthened by the repetitions, corrections, and other reactions that adults provide. In recent years, it has become clear that this principle will not explain all the facts of language development. Children do imitate a great deal, especially in learning sounds and vocabulary; but little of their grammatical ability can be explained in this way.そして、この「模倣説」を否定する事例として2つが挙げられている。そのうちの1番目は 子どもの発話の中には、「wented」、「taked」、「mices」、「mouses」、「sbeeps」 というようなミスがある。これは不規則形を学ぶ前に、規則的な文法ルールを「a reasoning process known as analogy(アナロジーとして知られる推論のプロセス)」によって自発的に拡張しようとする段階があることを示す証拠だ。というものだ。もし子どもが、単語やフレーズを大人のしゃべる通りに個別的に真似していたのなら、こういうミスは起こらない。なぜならここでは、大人が決して使わない言葉が勝手に発明されているからである。 もう1つは、大人が何度か訂正させてもなかなか身につかない表現があるという事例。次のような母親と子どもの対話が挙げられていた。 CHILD: Nobody don't like me.問題文によれば、この事例は、「...children seem unable to imitate adult grammatical constructions exactly, even when invited to do so. 」という証拠であり、「'single negative' pattern」を使う段階に達していないこと、それゆえ「....language acquisition is more a matter of maturation than of imitation. 」であることを示唆していると結んでいた。 以上が入試問題第一問本文の概略であるが、論じられている点をこの文脈だけで判断するといくつか不満が残る。 例えば、冒頭で「言語の習得は、長いこと模倣と強化のプロセスであると考えられてきた。」とされているが、これを読んだだけでは、まるで「模倣された反応が個別的に増えること」イコール「強化」であるかのように思われてしまう。しかし実際には
余談だが、こちらによれば、岡大の英語の問題は「大学ランキング」のなかでも評判がよいらしい。
1 岡山大学 23となり、しかも岡大は2年連続で1位となっているそうだ。今回問題文の内容について多少の不満を述べたけれども、試験問題としてはなかなか妥当であった。来年度のランキングでも上位をキープされることを期待したい。 |
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【思ったこと】 _10309(金)[英語]21世紀の英語教育を素人なりに考える(2)「英語で苦労はさせたくない」か「英語はいらない」か 夕食時にNHK「特報首都圏:英語で苦労はさせたくない」を見た。最近、幼児向けの英会話教室がますます盛況になっているという。しかも、親の要望を反映してますます低年齢化が進む。教室によっては2歳以下、さらには0歳からの教育を行っているところまであるという。 番組ではまた、英語で行う教育を週に20時間以上実施している小学校も紹介されていた。「20時間」というのは、国語と社会以外のすべての科目を英語で行っているとの意味。 ゲストとして出演されたマーシャ・クラッカワー先生は、遊びとして取り入れることには賛成だが、勉強とか教育という話になると苦労しますよ、かつての基礎英語の講師・安田一郎先生の言葉を引用して「英語はhow to sayよりもwhat to sayだ」と強調しておられた。 以上が番組の概略であるが、第一印象としては「なんか違うんじゃないかなあ」という感じだ。この日はたまたま、岡山空港での搭乗待ちの時に『英語はいらない!?』(鈴木孝夫、PHP新書、2001年)を読んでいたこともあって、特にそう強く感じたのかもしれない。 2年ほどまえに話題になった『日本人はなぜ英語ができないか』を含めて、鈴木孝夫氏の著作について近く私なりの考えをまとめたいと思っているところだが、英語教育をめぐっては、少なくとも以下の視点に分けて考えてみる必要があると思う。
ここでもういちど、英語で行う教育を週に20時間以上実施している小学校の話に戻るが、この小学校では、これまでの反省から、茶道、華道、琴など日本の伝統文化を学ぶ授業を増やしていると聞いた。しかし、これは反省の方向が少し違うのではないかと思う。いわばカルチャー教室のような形で日本の伝統文化を紹介しても、身につくのは断片的知識だけだろう。ホームステイ先での話題は豊富になるだろうが、それは観光バスのガイドさんが持ち歌のリパートリーを増やすのと同じ程度のものだ。英語の名詞は「もの」、日本語の名詞は「こと」”というような言語そのものの特質を理解するためには、やはり、日本語をちゃんと読み、ちゃんと書くという力を養成することが先決ではないだろうか。 |
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【思ったこと】 _10311(日)[英語]21世紀の英語教育を素人なりに考える(3)英語教育論における割引と割増の効果 『英語はいらない!?』(鈴木孝夫、PHP新書、2001年)を読了。3/9の日記で予告したように、鈴木氏の著作について近く私なりの考えをまとめてみたいと思っているが、それに先だって、この種の英語教育論を読む時に、本文自体のロジックとは別に、その説得性を高める割増要因、あるいは割引要因としてどういうものがあるのか少し考えてみた。 例えば、ある匿名投稿者が英語教育不要論を展開したとする。そのロジックには納得できる点が多々あるとして、読者はどういう反応を示すだろうか。もしその投稿者が英語の入試に何度も失敗してフリーライターに転身した人であったとすると、少なくとも一部の読者は、 ロクに英語の勉強をしなかったヤツが自分の弱点を正当化するために自分勝手なことを言っている と受け止めるかもしれない。ところが、全く同じ文章が、勤続20年のベテラン英語教師によって書かれたと分かると、 これだけ豊富な経験を持った人があえて「不要」と言うからにはよほどの根拠があるに違いない。 と受け止めるかもしれない。そういう点では、英語の名詞は「もの」、日本語の名詞は「こと」で引用した『「英文法」を疑う ゼロから考える単語のしくみ』(講談社現代新書 ISBN4-06-149444-9)の著者の松井力也氏は、大いに得をしていると言える。というのは、著者は公立高校の現役の英語教師であるからだ。英語の先生に「英文法を疑う」などと言われてしまうと「そりゃ大変だ。本当だろうか。」と、割増して聞こう(読もう)という気になるはずだ。 同じことは「英語教育重視論」についても言える。大学の英語教育論議などで、英語教育担当の教員が重視論を唱えても、どうせ自分たちのポストを増やしたいだけだろうなどと割引されてしまうところがある。利害関係の無い日本文学の教員から重視論が出てくると、相当に割増されることになる。 以上は読み手の受け止め方についての話題であったが、もっと根本的に、不要論を含めた英語教育改革論議を最も生産的に進めるには、どういう場がふさわしいかという問題がある。 例えば、旧教養部時代の大学の英語教育のあり方は、教養部の英語担当教員が中心となって議論されてきた。しかし、そういう立場の人々のあいだからは、
元の話に戻るが、巻末の略歴を拝見したところ、鈴木孝夫氏は 1926年生まれで慶応義塾医学部予科、同大学文学部英文科卒業。イリノイ大学、イェール大学客員教授、フランス高等社会科学研究院客員教授などを歴任.....とある。こういう方が、「英語はいらない」(←本文を読めば分かるが、鈴木氏は日本語教育だけすればよいと主張されているわけではない。念のため)などという本を著されると、割増効果が出てくるのは確実だ。逆に言えば、割増分に囚われない読み方が必要。つまり「鈴木先生が言ってられるのだから本当なんだろう」ではなく、あくまで「この主張は何に依拠しているか」をクリティカルな目で捉え直す姿勢が求められると思う。 |
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【思ったこと】 _10317(土)[英語]21世紀の英語教育を素人なりに考える(4)「英語」をクリティカルな目で捉えなおす意義 3/11の日記の続き。今回から、『英語はいらない!?』(鈴木孝夫、PHP新書、2001年)の内容に立ち入って感想を述べていきたいと思う。 まず本書の特徴であるが、これは、英語教育のあり方だけを論じた本ではない。日本人が外国、とりわけ西欧とどう接するのかを総合的に論じた本である。戦後教育の影響や米国依存型の経済体制の中で、我々は知らず知らずのうちに固定的な「西欧」観、「国際」観を形成してしまっている。私個人は本書の内容に全面的に賛成しているわけではないけれども、少なくとも、クリティカルな思考の目でこれを捉え直すという点で、本書が21世紀の初頭に出版された意義は非常に大きいのではないかと思っている。 例えば、本書にしばしば登場する「大東亜戦争」という言葉。この呼称は、「大東亜共栄圏」の名の下で侵略戦争を美化する呼び方であるとして、しばしば批判される。しかし、それでは「太平洋戦争」は正しい呼び方なのだろうか。高校卒業以降、歴史や地理の勉強を全くしたことの無い私ではあるが、少なくとも「太平洋」という地域に旧満州が含まれるとは考えにくい。また、終戦(敗戦)記念日が8月15日であることは間違いないが、一連の戦争が1941年の12月8日から始まったものであると考えてよいものかどうか、など考えると「太平洋戦争」のほうがむしろ不適切であるという気がする。せめて「東アジア戦争」と呼ぶべきではなかったのか、誰がどういう理由で「太平洋戦争」という呼称を定着させたのか、もう一度捉え直してみる必要があると思う。 英語教育の話に戻るが、じつは私自身、これまで英語についてはかなり固定的な見方を持っていた。本書では、これに対して
このところ、ニューヨーク株式市場では大幅な下落が続いている。そんななか、戦後50年以上たってもなお、米国経済依存から脱却できない日本の経済体質にはどこか根本的な問題があるように思う。不況な長引くなか、終身雇用型・家族型に変えて、リストラの断行やアメリカ型の競争原理を取り入れる企業が増えているが、それで本当に経済の建て直しが出来るのか、ここでもう一度、日本型企業経営を再評価してみる必要もあるのではないか、などと思ってみたりもする。心理学の研究ももちろん例外ではない。佐藤達哉氏は、。『現場心理学の発想』(やまだようこ編、 1997、 新曜社、ISBN4-7885-0589-4)の第3章で田中國夫氏の文章を紹介しながら、 .....海外の話題が台風のようにわが国の心理学界を襲っては消えていったということに筆をすすめる。ここであげられている台風にはゲシュタルト台風,ニュールック台風,援助行動台風,などがある。そして,これらの台風が,現在の日本の様々な状況や現象を解明できるか,と問う。と述べている。これは別スレッドの連載になるが、「米国の心理学者に師事することの意義と限界」、「心理学の論文を英語で書くことは価値のあることなのだろうか」などについても考えを述べてみたいと思っている。 |
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【思ったこと】 _10321(水)[英語]21世紀の英語教育を素人なりに考える(5)ファクトを重視する日本人?、「理」と「気」が豊かな韓国人? 3/17の日記に引き続いて、『英語はいらない!?』(鈴木孝夫、PHP新書、2001年)から。 今回は、本書の冒頭に記されている、日本は「フィクションよりファクトを重視する文明」であるという論考と、それに多少関連する韓国人の話題について考えてみたい。 まず該当箇所を引用すると..... 私がよく言うことの一つに、日本は事実(ファクト)に重きを置く文明であって、欧米や中国といったユーラシア大陸のそれは、基本的にはファクトよりもフィクション(言説、理屈、そして虚構)を重視する文明だというのがあります。...【略】 ...考えられるすべての多様性を内包しながら、しかも相互が接触し混住するユーラシア大陸では、人々が結束しまとまるためには、個々の具体的な事実を超えた、理念的抽象的な次元での一致を求める方向に行かざるを得ません。......【略】 .....成員間の相違が比較的小さい日本は、言挙げ(フィクション)よりも互いに共有する事実(ファクト)にもとづく一体感に頼ることが可能な文明でした。ここでは「論より証拠」が決め手で、理屈や言説はむしろ無駄なものとして排除される傾向が強かったのです。しばしば耳にする「理屈としてはそうだが、でも事実は違う」といった表現は、一般に外国では矛盾と受け止められてしまいます。[p.6〜7] となる。確かに、価値観や要請が多様であればあるほど、理念的抽象的次元での一致は求められるようになってくるだろう。暴力や戦争で要求を通せないとなれば、結果的に、理屈を並べて周囲を納得させ、多数派を形成してコトを通すしか道はあるまい。 鈴木氏の「欧米:ファクトよりもフィクションを重視する文明」という御主張はこの点で納得できるところがあるが、いっぽうの「日本:事実に重きを置く文明」という部分はどうだろうか。 ちなみに、鈴木氏がいう「事実」とはダイレクトな客観的事実そのものではない。「互いに共有する事実(ファクト)にもとづく一体感に頼る」という意味のようだ。つまり、「事実(ファクト)を大事にする」と言っても、「それはホンマに事実なんやろか」と、クリティカルな目で詮索するとは限らない。ムラ社会のみんなが錯覚していればそれも事実、幻覚でも幻聴でも奇跡でもみんなが疑わなければそれも事実となるのだろう。 少々脱線するが、別スレッドで取り上げる予定の伊藤哲司氏の『“社会”のある社会心理学にするために』(『現場心理学の発想』第9章、やまだようこ編、 1997)の中に 「○○を信じる」というときに,これまでの面接調査の結果などから,どうやら2つの対照的な思考形態があるらしいことが分かってきた。ひとつは,その根拠などは考えず直感的に占いは当たるなどと考えるものである。女性や文系学生にありがちな思考で,半ばフィクションだと思っているところがあり,信じているといっても深入りすることはない。もう一方は,超能力の根拠が何であるかなどと因果的に考えるものである。男性や理系学生にありがちな思考で,あくまでノンフィクションであると思っており,この方向で信じると深入りする可能性がある。これらの方向性は一見逆なのであるが,巡って同じ「非科学を信じる」ということに辿りつく。[p.155]という記述があるが、鈴木氏が「事実(ファクト)を大事にする」と言っておられるのは、このうちの前者の思考形態を意味しているのではないかと思う。要するに、「事実(ファクト)」と言っても、必ずしもノンフィクションとは限らない。フィクションも「事実(ファクト)」の一部として信じる直感的思考こそが「日本:事実に重きを置く文明」の真相ではないかと思うのだが、いかがだろうか。 このことに関連して、3/18の朝日新聞読書欄で『韓国人のしくみ』(小倉紀蔵著、講談社現代新書)が紹介されていることを思い出した。「韓国人は感情的だ」と言う意見があるかと思えば、「いや理屈っぽい」という意見があるが、小倉氏によれば、相矛盾 する性格は、どちらも韓国人のものであり、それは朱子学に由来する「理」と「気」による二元論によって、最もよく説明できるという。ここでいう「理」と「気」とは...
「理」や「気」は、心理学で言えば構成概念であって、それを測定したり、包括的にコントロールしたり、何かを予想したり、あるいは複雑な行動の記述を簡潔化できる力があるならば、それなりに有用であるかもしれない。さっそく『韓国人のしくみ』を注文させていただいた。 小倉氏はインタビューの最後のほうで、「日本人学生も、理や気が強ければ、外国語がもっと上達するのに」と言っておられる。小倉さんは、日韓の学生交流の中で韓国人学生の日本語の上達ぶりに驚かされという。上達の原因については「「理」の力である使命感を強く持ち、友人との積極的な付き合いで、「気」を充実させているからだ」という解釈をしておられるが、トートロジーにならぬようにうまく説明できるだろうか。いずれにせよ、韓国でどのような外国語教育が行われているか、この連載に限って言えば、韓国人は日本人より上手に英語をしゃべったり書いたりできるのか、という点についてはもう少し資料を集めてみたいと思っている。 |
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【思ったこと】 _10417(火)[英語]21世紀の英語教育を素人なりに考える(6)「日本人にとって英語とは何か」シンポジウム(1) 4/18の朝日新聞によれば、「日本人にとって英語とは」シンポジウム(主催・大修館書店、朝日新聞社)が、4月1日、東京有楽町の朝日ホールで開かれたという。そのシンポの基調講演者は、この日記でも何度か御著書を引用させていただいている鈴木孝夫氏であった(最新の引用は3/21の日記)。 新聞に掲載された鈴木氏の基調講演の要旨は、御著書の『英語はいらない!?』(PHP新書、2001年)や『日本人はなぜ英語ができないか』(岩波新書、1999年)の趣旨をまとめられたようなもので、読者にとってはそれほどの目新しさはない。しかし、その内容が、言語関係の出版でその名を知られる大修館書店と新聞社が主催するシンポジウムの基調講演として伝えられた意義は非常に大きいと思う。 これまで、英語教育というと、英語(実際には土着英語)をお手本として、少しでもお手本の足元に近づけるように「読む、聞く、書く、話す」といったスキルを上達させることが当たり前のように言われてきた。大学における最近の英語教育論議の中では、
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_10423(火)[英語]21世紀の英語教育を素人なりに考える(番外編):ODA、10年連続世界一と簡易日本語普及のススメ 4/24朝のNHKニュースによれば、2000年の日本のODA(Official Development Assistance)支出は130億ドル。前年度より減少したものの、2位の米国95億ドルをはるかに上回って10年連続で世界一になったという。 130億ドルと言えば、日本人一人あたり、100ドル以上、4人家族であれば1軒あたり毎年5万円を使っているのだから相当なものである。 「発展途上国の開発を援助する」などどいうと聞こえはいいが、その実態が取り上げられることはあまりない。すでに先進国の工業水準に達しているような国に援助を続けているとしたら奇妙であるし、その使い道がヒモ付きで、もっぱら日本の企業を利するようになっているとしたらこれもまた問題。援助額をバッサリと減らせないのは、相手国側の要求というよりも、援助の裏で得をしている企業の政治力が働いているのではないかと思ってみたりする。いずれにせよ、発展途上国の人々が自立できるような形の援助が行われているかどうか、もっと厳正にチェックする必要があると思う。 鈴木孝夫氏の著作を読み過ぎたせいかもしれないが、どうせ援助をするならば、もっと日本語の普及に力を入れてもよいのではないかと思う。何も「英語帝国主義」に代わる「日本語帝国主義」の世界を構築しようというわけではないが、非英語圏の被援助国の人々と話すのに英語を使う必然性はどこにもない。相手国の言語と日本語で相互にやりとりすればよいのである。 となれば、まずは、被援助国に日本語学習施設を作り、日本語を学びたい人に奨学金を支給する。その後、日本の大学に留学生として迎え入れ、種々の技術を身につけてもらい、自分たちの手で開発に取り組んでもらうことのほうが本当の意味の援助になるはずだ。もちろん、日本人が被援助国の言語を学べる施設も増やすべきであるし、小中学生の相互ホームステイも活発にする必要がある。 ところで、日本語を国際普及するためには日本語の難しさが大きな障壁となる。文字の多さ、書きにくさ、同音異義語の多さ、文法の違い、....根本的には、事物を「モノ」ではなく「コト」としてとらえる発想の違いのようなところもある。となれば、土着の日本語をそのまま普及させるのではなく、鈴木氏の言われる「イングリック」に対応した、簡易型の国際日本語のようなものを確立したほうが、結果的に学習者が増え、多くの外国人が日本語を使えるようになるものと期待される。 少し前に読んだ『日本語の謎を探る-----外国人教育の視点から』(森本順子、ちくま新書、1996年)の最初の2つの章には、こんな事例が紹介されていた。
森本さんの本自体は助詞の必要性や大切さを説いたものであったが、私は、逆に、外国人ならば、上記のような日本語を使ってもいいじゃないか。せっかく日本語で話してくれているのだから、こっちだって最大限に、相手の言わんとすることを正確に聞き取るように努力をすべきである。そういう態度こそが、自国語を外国人に学んでもらうために必要ではないかと思う。 森本さんの本の第2章では「助詞はなぜ必要か」という節の中で 先生友達電話した という事例が紹介されていた。これは、
ちがう、友達ぼく電話した。 と答える。それでもまだ、上記の2.か3.かは区別ができない。じつはその学生が言いたかったのは3.の意味であったのだそうだ。 森本さんは、だからこそ助詞は大切であると言いたいのだと思うが、電話をしたのが誰かということは、会話のやりとりの中で十分に判明してくるはずだ。ヘタに助詞の使い方を間違えるよりは、助詞なしで気軽に発言してもらい、事後のやりとりで不明な点をはっきりさせればそれで済むように思う。上記の例など、もっとくだけて、 先生、友達、電話した、私。 と言ってもらってもよいのではないか。私だったらそれでも許容する。 |
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