じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] 少し古い写真になるが、一週間ほど前にカラカサタケの仲間の菌輪が見られた。桜の木を囲むように円環状に並んでいる。昨年と同じ場所。地中では一年中成長を続けているのだろう。なお、このキノコは「オオシロカラカサタケ」らしく、食べられない模様。写真左上は、昨年同じ場所で撮ったもの。


9月27日(月)

【思ったこと】
990927(月)[心理]「自己と他者--アイデンティティの根源を求めて」(その3)自我原理主義の限界と日本型システムのなかの<にんげん>

 京大文学部で9/25に行われた「第27回京都心理学セミナー:自己と他者--アイデンティティの根源を求めて」の参加報告3回目。今回はトリをつとめられた濱口惠俊氏(滋賀県立大)の「日本型システムのなかの<にんげん>---「関係体」の存在論的検討を通して」についての感想。

 濱口氏は今回の演者の中では最年長にあたる。こういうスピーチをする場合、まずジョークから始めるのがアメリカ人、言い訳から始めるのが日本人という話から始まった。ジョークを聞く側にも国民性があるという。ジョークを半分ぐらい聞いたところで笑い出すのがフランス人。そのジョークは古いぞと相手をけなすのがアメリカ人、一日経ってから笑い出すのがドイツ人。で、聞いている時にはニコニコしているが実は何も分かっていないのが日本人だという。これは英語でジョークを聞いた時の話だろうか。

 というような面白い話ばかりかと思っていたところ、本題に入ったところで「自我原理主義とその限界」という難しい話が始まった。配布資料を参考にしながら私の理解した範囲を記せば
  • デカルト主義では、主体は客体との関係を考慮せず無条件に存在しうると考えるが、これは独我論的な自我肯定にすぎない。「われ思う、ゆえにわれあり」は、「われ」の根拠として<思う>主体としての「われ」を設定することは循環論的誤謬。<思い>の帰属する主体が確かに「われ」であることを立証していない。→木村敏、滝浦静雄
  • 「孤」のままで自己充足しうると考えられてきた「個」は、自然界でも人間界でも存在しえず、観念上の虚構にすぎない。→藤沢令夫
  • 「有るものは、何かに於いてでなければならぬ」つまり「場所」における存在こそが真の実在。自己は主語そのものとしてではなく、述語的統一として存在。→プラトン、西田幾多郎
講演はさらに、相関存在論、方法論的個別主義から方法論的関係体主義へのパラダイムシフト、関係集約型タイプとしての「間人」(the contextual)と、個体集約型タイプとしての「個人」(the individual)の区別という話題に発展していったが、抽象的な話題が多く、私自身の言葉に翻訳して語れるところまでは理解できなかった(ぢつは、ちょっと居眠りをしてしまった。ごめんなさい)。

 後半では、「間人主義」「個人主義」の国際比較調査の結果も紹介された。これは例えば「私は、自分の役に立つような人としかつきあわない」とか「まわりの人が悩んでいると、とても平気な顔はしていられない」などの質問にあてはまるかどうかを尋ねる調査であり、25カ国、約8000人を対象にした大規模なものだ。「間人主義」「個人主義」それぞれのスコアを横軸と縦軸にとった散布図を見ると国別に大きな違いが表れていたが、時間の関係で細かい解釈までは伺うことができなかった。

 以上、3回にわたってセミナーの内容を私なりに要約してみた。次回は私自身が考えたことを述べる予定。それにしても京大構内は建物の工事で騒がしい。昨年秋に来た時も工事をやっていた。何だか一年中工事現場というような気がする。文学部新館南側は依然として発掘調査中、私が学んだ頃の本館はすでに取り壊され、新館(東館)は複数の学部の共同利用になっているとのこと。建物の中に入ればそれなりに快適な研究環境があるものの、岡大のような自然とのふれあいの場が殆ど無い。東大のような鬱蒼と茂る樹木も少なく、全体としてお茶の水近辺の私立大型に様変わりしているような印象を受けた。
【ちょっと思ったこと】