じぶん更新日記1997年5月6日開設Y.Hasegawa |
1999年版からの続きです。 |
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【思ったこと】 _00113(金)[一般]「暴走行為は殺人未遂」という認識が必要 各種報道によれば、パトカーの追跡からの逃走中に転倒して死傷した高校生の遺族の訴えに対して高松高裁は13日、「現場のパトカーの幅寄せ行為には違法性があった」として香川県側の控訴を棄却、死亡した高2生徒の両親に約1200万円、同乗していた高3生徒に約1000万円の支払いを命じたという。なお香川県は即日上告したという。 1/14の朝日新聞によれば、この事故は1988年1月4日の深夜に起こった。暴走行為をしていた高校生らがパトカーの追跡を受け、信号無視など道交法違反をしながら逃走。パトカーによる3回の幅寄せをされたあげく、道路標識に衝突して転倒したものであるという。 私がよく分からないのは、この支払いに香川県民の税金が使われるということ。警察官の行為が公務にあたるための損害賠償なのだろうけれど、もしパトカーに公務を著しく逸脱する違法行為があったのならこれは警官の個人責任に帰すべきもの。また幅寄せなどが、暴走を阻止するための緊急避難行為として妥当なものであるならば賠償など不要。いずれにしても、そのことで県民の税金が使われる必要は一切無いように思うのだが、どこか間違っているのだろうか。 一般論として、暴走行為はこの世界に存在してはならない行動。若者にもそれなりの言い分はあるだろうが、静穏を破る上に、信号無視などで他のドライバーや歩行者の生命を危険にさらす「未必の故意の殺人行為」と言っても言い過ぎではなかろう。暴走者たちを直ちに逮捕できず、信号無視などを含む危険な逃走を継続させた追跡体制に問題があったことは事実であるが、それはそれとしても、もし上記のバイクが逃走中に他の車や歩行者に衝突して相手側を死亡したら、それは紛れもなく殺人罪として裁かれなければならない。包丁を持ちながら通行人を次々と斬りつけていく行為と、凶器と化したバイクを暴走させながら他者の生命を脅かすのは本質的に同罪。後者の行為が道路交通法だけで裁かれ殺人未遂行為と見なされないのでは社会の公正は保たれないように思う。 |
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【思ったこと】 _00130(日)[心理]新潟県の長期監禁事件について思ったこと 1990年11月13日に新潟県三条市で行方不明となった女性(当時小学4年)が、9年以上たった1月28日午後、同県柏崎市内で保護されたという。同市内に住む37歳の男性の家に無理やり連れていかれ、保護されるまでずっと監禁されていたというのはまことにショッキングな事件。人生の一番大切な時期を奪った罪は重大だ。 この事件についてはまだ捜査中であり、軽率なコメントは差し控えたいと思うけれど、現時点でもすでにいくつかの疑問が浮かんでくる。
ああ、そのことでしたら、ほかにもこういう事例が知られています。それと同じですよ。というように、一見不可思議と思われる現象が「ありがち」であることを指摘したまでであって、本質的には何も説明していない。 監禁された女性に対する今後のサポートが大切であることは言うまでも無いことだが、類似の事件の再発を防ぐためには、なぜこのような長期間の監禁を許してしまったのかについて、どこに重大な欠陥があったのかを明らかにしていく必要がある。 私自身の立場から言えば、この男性に対して、病院や臨床家がどういう対応をとってきたのかということに最大の関心を持たざるを得ない。1/30の朝日新聞によれば、この「男」は
現時点でこのことまでふれるのは言い過ぎかもしれないが、「引きこもり」とか「家庭内暴力」に対してカウンセラーが有効に対処できていない問題点についてはこれまでも指摘したことがある。例えば97年7月25日の日記では金属バット息子殺人事件(こちらに資料集があります)での、カウンセラーの対応について 父親が、鼻の骨が折れるほど殴られながら、土下座して息子の言いなりになっていたのは、「親が子の要求に答えてやることが必要です。暴力に立ち向かうのは、よくない」というカウンセラーの教えをひたすら守っていたためという『女性自身』(8/5号)の記事を引用して考えを述べたことがある。同日の日記ではまた、小田晋・国際医療福祉大学教授の発言も引用しており、ここに再掲させていただく。 “現状では日本のカウンセラーの大半が、来談者の自主性にまかせて、本人の話に根気よく耳を傾けるという方法をとっています。これは精神分析の考え方から出発したカール・ロジャースという心理学者の技法で、この方法は本人が苦しんでいて立ち直る意欲がある場合は効果的ですが、本人が自分の問題性を自覚していない場合は、そもそも治療に入れず、その間に事故が起きてしまうことが稀ではありません。”...“米国では今日、行動科学の考え方に立って、本人の行動を矯正していく方法のほうが盛んになっています。”もう1つ、平成7年から始まったスクールカウンセラーの制度についての小田教授の次のような発言も引用している。 “このスクールカウンセラーの多くは、ロジャーズ方式なのです。つまり、向こうから来るのを待っている。しかも、カウンセラーの多くは、心のケアが大切だという大前提のもとに、犯罪心理学や精神医学を学びたがらない。”....“自主性の尊重という名の放任は、危険きわまりないことです。”..今回の事件が、どの程度上記の引用に該当するかは今後の捜査の結果を待たなければならないが、1/31の朝日新聞では 男性は同市内の隔離病棟に入院中で、精神状態がなお不安定だという。捜査本部では、医師の判断を仰いだうえで、立件に向けた最終的な判断を下すことにしている。という。しかし、もし過去に治療を継続していた医師だけの判断を仰ぐというなら、これは問題。立件できないという事態にでもなった場合は、そういう犯罪行為を放置した医療体制や社会体制自体が告発されなければならないと思う。 |
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【思ったこと】 _00202(水)[心理]「犯罪心理」を語ることについての私の方針 2000年1月30日の日記で、新潟県で起きた少女の長期監禁事件に関連して、 【なぜ女性は逃げ出さなかったのか】 という疑問に対して、「当初の恐怖で逃げる気力を喪失していた」とか「心にカギがかかった状態になってしまった」といった心理学関係者のコメントが寄せられているようだが、この手のコメントはと発言したところ、こころの散歩道(日記猿人登録日記はこころの散歩道 DAY、ReadMe登録名は「こころの散歩道:心理学総合案内:NEW 行方不明少女9年ぶり保護 の犯罪心理」)の碓井真史さんからお互いを更新する掲示板に 「ありがち」というのとはニュアンスが違いますが、「人間誰でもそうなる可能性がある」と言ったことをコメントしています。という書き込みをいただいた【前後の文章省略、改行部分変更させていただきました】。私の発言は、碓井さんの日記やHPを拝見する前に書かれたものであったが、その後、新潟日報の記事などを拝見すると、時間の順序を気にとめずに私の日記と新潟日報を同時に読まれた方は、なんだか上記の「心理学関係者」が碓井さんのことであるように受け止められてしまうタイミングになってしまった(実際は、NHKテレビと朝日新聞記事に寄せられた別の心理学関係者の方々のことを念頭に置いていたのだが...)。 さて、「ありがち」の件だが、碓井さんが言われているように、「人間誰でもそうなる可能性がある」ことを主張することにもそれなりの意味がある。例えば、オ○ムや統一○会にマインドコントロールされた信者たちは決して自主判断力の無い人間ではなかったし、豊田商事に騙されたお年寄りは決して欲が深かったわけではない。「ありがち」を指摘すれば、被害者への偏見は解消されるし、今後の同種の被害の防止にも役立つ。 さらに、被害者本人や家族にとって1つの癒しになることも間違いない。交通事故で愛児が脳死寸前の状態になってしまった母親に対して、いくら事故の客観的原因を説明したところで癒しにはなるまい。むしろ「同じようなお子さんがたくさん居るんですよ。もっと悲惨な状況の方もおられます」と言ったほうが、いくらか励ましになるだろう。 とはいえ、「ありがち」だけではやはり再発の防止にはつながらない。交通事故がありがちでは困る。事故で重傷になった人の治療方針を事情を知らない外部の人間があれやこれや論じても建設的な結論は出てこない。そういう治療は主治医に任せて置いて、むしろどうすれば同じような事故の再発が防げるかを真剣に考えるべきである。今回のケースで言えば、監禁された女性のケアの問題は、スタッフがクローズドな環境のなかで「ひっそり」と行えばよく、むしろ我々がもっと議論しなければならないのは、なぜこのような長期間の監禁を許してしまったのか、引きこもりや家庭内暴力に対して病院や臨床家の対応が適切であったのかどうか、という点にあるのではないかと思う。この点で「精神障害」に関するタブーがあってはならないし、臨床家どうしの庇い合いは決して許されない。 もう1つ、「ありがち」の指摘は思考停止をもたらす恐れがあるという点も指摘しておきたい。ワイドショー番組や週刊誌などでは、しばしば、子供が殺された事件を「お涙頂戴もの」として取り上げて、大きな謎があるかのように煽ぎたてる。そして、その番組や週刊誌で「ありがち」であるとの説明を聞くことでやっと安心した気持ちになる。行動分析的に言えば、
1998年の11月26日の日記でもふれたように、文京区の事件では、ワイドショー番組などで当初「お受験」が殺人の原因であるかのように騒ぎ立てられた。これなどまさに上記の1.〜3.の構図どおりであった。 私個人は、「ありがち」を指摘するのではなく、「ありがち」だと思われていることについて、もっと別の可能性は無いのだろうかというクリティカルな視点を提供する立場から心理学者としての発言を続けていきたいと思っている。 |
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【思ったこと】 _00205(土)[一般]京都の事件、その後 昨年12月21日に京都の小学校の校庭で小学2年生が殺害された事件に関連して、任意同行を求められた21歳の男性が公園での捜査員の説得中に突然逃走、近くの団地から飛び降りて自殺したという。2/6朝のNHKニュースでは、家宅捜索により有力な証拠物件が見つかったことなどが報じられ、この男性の氏名も公表された。 現時点で私が知り得たことは
現時点ではこれ以外の情報が無い。もっとも何か新しい情報が入ったからといって「犯罪心理」などを軽々しくコメントできる立場ではないが...。とりあえず、思ったことをいくつか。
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【思ったこと】 _00211(金)[日記]「即席評論家」としてのWeb日記作者の存在意義と節度(その1) 京都での小学生刺殺・容疑者自殺事件、新潟での少女長期監禁事件など衝撃的な事件が相次いで伝えられている。Web日記作者が「即席評論家」、「素人評論家」としてこれらを日記ネタにすることについて、まついさんやRANDOM ACTさん(該当部分はこちらにあります)がご意見を書かれていた。これを機会に私なりの意見をまとめてみたいと思う。 議論の経緯はこちら まず初めに、私が2/8の「日記読み日記」で Web日記作者なんて(私がマイニッキエンジンを通じて拝見している方以外のことは分からないけれど)殆どが即席評論家なんじゃないかな。私はその存在を肯定的に評価した上で日記読みを続けているんだけれど...と述べたことについてもう少し説明させていただく。言い訳めいてしまうが、この感想の中で「Web日記作者」と述べたのはあくまで、私がマイニッキエンジンを通じて拝見している日記の作者という意味。少なくとも私個人の基準において「被害者や遺族の尊厳を無視し」てゲーム感覚や(視聴率稼ぎの一部の)ワイドショー感覚で事件を取り上げるような日記はハナから相手にしていない。この点で、「即席評論家」として想定されているWeb日記の範囲にかなりの食い違いがあったように思う。それと、上記の、私はその存在を肯定的に評価した上でというくだりだが、これは「その内容を肯定的に評価」しているという意味では断じてない。存在を肯定することと内容を肯定することでは全然意味が違う。私の側に言葉足らずのところがあったことをお詫びしておきたい。 さて、以上をふまえた上で、次のような問題について考えてみる必要があるように思う。繰り返すが、被害者や遺族の心情を無視してゲーム感覚や(視聴率稼ぎの一部の)ワイドショー感覚で事件を取り上げるようなWeb日記は論外。ただし、どこまでがそれに該当するかという議論は必要であろうかと思っている。
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【思ったこと】 _00213(日)][日記]「即席評論家」としてのWeb日記作者の意義と節度(その2) 2/11の日記の続き。前回提示した3つの問題のうち、第一の問題: 1.命が奪われた、もしくは失われた事件をWeb日記ネタにすることはすべて被害者や遺族の尊厳を無視した行為になるのだろうか。もしそうでないとしたら、具体的にどういう節度が求められるのだろうか。について私なりの考えを述べてみたいと思う。何はともあれ現実に発生した犯罪事件を語る以上、被害者やその遺族の気持ちに配慮することはゼッタイに必要。それは単に、取って付けたように「事件で亡くなられた方のご冥福をお祈りします」という一文を入れれば済むというものではなかろう。 被告のえん罪をはらそうと活動している団体のチラシでは、その目的遂行を優先するあまり、元の犠牲者の死に対する配慮がどうしても欠けてしまうように感じる。「検察側の主張では、被告は女子高校生を木に縛ってナイフで刺し殺したとされている。その時の悲鳴を近くの道路で聞いた人がいるとされているが、殺害現場からではそんな声は聞こえるはずがない」というようなチラシを見たことがあったが(だいぶ昔の話なので不確か)、被告が無実であることを筋道立てて主張している点は理解できるとしても、その描写があまりにも生々しく、やるせない気持ちが残ったことを記憶している。最近の草加事件民事訴訟の差し戻しでも同様。現実に殺された人が居るということを忘れてはなるまい。 1998年10月26日にも書いたことがあるが、人の命の重みは、現実の事件でもフィクションの世界でも同じように扱われなければならないと思う。 とはいえ、刑事事件について何も語らない、あるいは敢えて無関心を決め込むということが最善の道であるとも思えない。私生活、自然とのふれあい、スポーツネタ、芸能ネタ、政治ネタなどが取り上げられるのと同様、現実に起こってしまった刑事事件に対して目をそらすことなく、事実としてきっちりと受け止めていくこともWeb日記の一視点として十分に意義があると私は思う。タブーがあってはならない、要は、話題の取り上げ方がどういう方向に向いているかによって決まってくるのだろう、それにより、被害者や遺族の気持ちを無視したものにもなりうるし、同種の事件の再発防止の願いにもなる。 時間が無くなってしまった。次回以降に続く。 |
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【思ったこと】 _00214(月)[日記]「即席評論家」としてのWeb日記作者の意義と節度(その3)発言責任と主張内容の一貫性について 昨日の日記の続き。本日は2番目の問題について考えてみることにしたい。なお、この連載は、全3回で完結する予定で「前編」、「中編」と続けてきたが、時間の関係で書き終えることができなかったため、「前編」を「その1」、「中編」を「その2」、今回は「その3」というようにタイトルの一部を変更し「その4」まで延長することにさせていただいた(←これもあくまで予定)。さて2番目の論点は以下のとおり: 2.Web日記は報道と違い、批判や検証を受けることがないのだろうか。それ故に、殊更自戒すべきなのだろうか。私は、Web日記であっても、不特定多数に発せられたものである以上、執筆者はその発言内容に責任を負うのが当然であり、当然、批判や検証を受けることになると考えている。もっとも、そこで問われる責任は、プロバイダ契約時に明示されている程度の最低限のものであり、あとは、執筆者自身の姿勢に委ねられている。 上京中であったため細かい経緯は分からないのだが、あるWeb日記をめぐって自分の発言には責任を持つ=削除・変更は履歴を残すことが話題になっていたようだ。しかし対象となるサイトの主張の一貫性や信頼性についての判断は、結局のところは読者側に委ねられているように思う。 やや脱線するが、別途不定期連載で感想を述べている『受験勉強は子どもを救う』(河出書房新社)という本のなかで著者の和田秀樹氏は、メランコ人間(躁うつ病型)の時代からシゾフレ人間(分裂病型)の時代への変化があったという指摘[p.52〜54、115〜120]に引き続いて、「ああ言えば上祐」型の場当たり的な取り繕いを引き合いに出しつつ、 病的なレベルでないシゾフレ人間にしても、時間軸での連続性の感覚は希薄なものであり、メランコ人間は時間軸での連続性に縛られていると言える[p.119]という指摘をされている。もし和田氏のご指摘のように、40歳代以上にメランコ人間が多く、今の若者にシゾフレ人間が多いとするならば、主張の一貫性の受け止め方に食い違いが出てくることも考えられる。 となってくると、少なくとも日記猿人のような場では、主張の一貫性を売り物にした日記よりも、その場その場で(場当たり的ながら)読者の琴線に触れる言葉を残すような日記のほうが得票を集める可能性も出てくる。一貫性の無い場当たり的な主張を好むかどうかというのは、読者側の価値観の問題。学術論争ならともかく、読者の好みにまで一貫性を求めることはできない。そういう視点から、日記猿人のランキングなどでどういう日記が得票を集めていくのかをウォッチングすることも一興であろう。 上記2.の論点に設定した殊更自戒すべきかどうかという部分については、次の3番目の論点に関連づけて次回以降に取り上げる予定。 |
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【思ったこと】 _00215(火)[日記]「即席評論家」としてのWeb日記作者の意義と節度(その4)口をつぐむことを美徳としてはならない 昨日の日記の続き。今回は3番目の論点について考えてみることにしたい。 殺人事件以外の諸々の社会現象を含め、Web日記作者が新聞記事やTV報道などの二次資料に基づいて素人的な意見を述べることには何ら情報的価値は無いのだろうか。結論を先に言えば、
上記1.については言うまでもないことであろう。別に仕事を持っている我々は、事件現場に駆けつけていくわけにはいかない。身の回りに直接起こったこと以外は常に二次資料に頼らざるを得ない以上、やむを得ないことである。しかしそれだけに、事実についての報道内容は正確に引用されなければならず、著作権をタテに制限が課されるようであっては困る。これについては2年余り前に、記事の著作権問題として論じたことがある。お読みいただければ幸いです。 2.については、むしろ新聞の投書欄などのほうが紙面の都合や編集者自身の価値基準でフィルターをかけられてしまう恐れがあって信用できない。私自身、中学〜大学の頃、新聞の投書欄に確か4回投稿して2回掲載された記憶があるが、いずれも2/3程度の分量に減らされていた。また、自分なりの基準で比較してみる限り、掲載された原稿とボツにされた原稿に差があるとも思えない。その点、Web日記では文章の一部を削られる恐れも、ボツにされる恐れもない。そういう中でテーマや文章量を気にせず自由に想像を膨らませていくところに「即席評論家」の真骨頂があるわけだ。このほか、テレビやラジオの街角インタビューなども当てにならないところがある。中にはヤラセもあるし、編集意図に合致したものだけがピックアップされている可能性もある。言うまでもないが、(Web日記を含む)個人サイトの最大の良さは、マスコミに掲載をお願いしなくても自由に意見を発表できるようになったこと。だからこそ、発言内容に責任を持ち時として自戒する必要も出てくるわけだが、基本的に口をつぐむことを美徳とするような風潮をつくってはいけないと思う。 3.については、一般に事件報道では、残虐な事件や不可解な事件が大きく取り上げられやすいことに留意していく必要がある。たとえば、昨日も引用した『受験勉強は子どもを救う』(和田秀樹、河出書房新社)によれば、分裂病者が人を殺しやすいという統計的根拠は無く、実際にはごくわずかしか起こっていないという。それが注目されるのは、相手をばらばらにしたり完全に抹殺するというように、やり口が残酷であるためだという[p.109]。この日記でも何度か指摘しているように、センセーショナルな事件ばかりに目を向けていても社会の本質に迫ることはできない。だからこそクリティカルな思考が必要になってくるのだ。 テレビでちゃんと伝えても受け手側で歪みが生じてしまうことがある。少々脱線してしまうが、「遠山の金さん」のお白州の場面で、“遠山左衛門尉(とおやまさえもんのじょう)様〜。御出座〜。”のあとの入れ墨を見せる場面でどういう台詞が決まり文句になっているのかを尋ねてみると、大概の人は「この遠山桜が目にとまらぬか!」と答えるとか。実際は「この遠山桜、よもや見忘れたたぁ〜言わせねえぜっ!」とか「...散らせてなるものか!」など何通りかあったらしいが、「目にとまらぬか!」とは一度も言っていないらしい。一般のニュースでも、この種の錯覚や「認知の歪み」が生じてしまう可能性がある。 ま、いろいと書いてみたが、議論の発端となったまついさんやRANDOM ACTさんのご指摘と、私が言いたいことの間にはそれほど大きな差は無かろうと考えている。いずれにせよ、「○○とはこういうものだ」、「○○はこういうものでなければならない」と固定的にとらえず、建設的な方向で、Web日記の発言の意義や可能性をさぐっていく姿勢が大切かと思っている。 |
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【思ったこと】 _00222(火)[日記]「即席評論家」としてのWeb日記作者の意義と節度(その5)未遂事件にこそ教訓あり 昨年12月に大阪摂津市の小学2年の女児が誘拐された事件で大阪府警は19日、犯人と見られる男性の似顔絵と脅迫電話の声などを公開したという。脅迫電話の声は23日正午からフリーダイヤル0120-676-662で聞くことができる[2/20朝日新聞による] 昨年から今年にかけて、文京区の女児殺害事件、京都の男児殺害事件、あるいは新潟の女性監禁事件などセンセーショナルな事件が相次いだために、女児が無事に保護されたこの誘拐事件のことは相対的にあまり注目されなくなってしまった。確かにこの事件、誘拐自体は明確な犯罪であるものの、身代金奪取は未遂。他の事件に比べて被害の程度は最小限にくい止められたためにワイドショーのネタになりにくい点がある。しかし、事件の再発防止という視点から見るならば、犯人を逮捕する必要はもちろん、どのような働きかけが犯人に身代金奪取を断念させ女児の無事保護をもたらしたのか、もっと目をむけていく必要があると思う。 1998年11月20日の日記(こちらに連載のまとめあり)にも述べたように、いっぱんに、事件というのは、無数に近い原因が同時または継時的に重なったり、相互作用を起こすことによって生じるものである。警察や検察の主たる関心は、これら諸原因の中で、犯人の能動的な行為がどの程度介在していたかを調べることにある。能動的な行為の部分に注目するのは、それが主たる原因だからではない。諸々の原因の中でその部分だけが、刑事的対策によって抑止可能であると考えられているからである。 しかし、同種の事件の再発防止という視点から見るならば、犯罪を未遂に終わらせた要因を犯人の能動的行為部分だけに限定する必要はない。もともと、犯罪行為というのは、犯人側の能動的な行為と、警察及び善良な地域住民による犯罪抑止行動のぶつかり合いの中で生じてくるものである。未遂というのは犯人側にとっては失敗だが、防止する側にとっては成功。そういう意味では、今回の女児誘拐事件の場合、犯人が女児を解放せざるをえなくなった状況に追い込まれたのは警察側の行動が成果をあげたとも言える。 私自身の自戒を含めて言うが、とかく「即席評論家」はセンセーショナルな事件ばかりに目を向けがちである。その中で警察側に落ち度があると、あたかもそれだけが原因で犯罪(あるいは事故)が起こったかのように集中砲火を浴びせてしまう[←もちろん、監禁事件での新潟県警や、容疑者を取り逃がして自殺に追い込んだ京都府警の対応に問題があることは確かだが]。また、2月2日の日記でもふれたように、
なお「未遂にこそ」という視点は、交通事故や病気、災害の防止、平和活動にも同じように活用できる。
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【思ったこと】 _00227(日))[心理]「死人テスト」からの発想と具体的であること(6):「原因」の積と和 1年以上も前のことになるが、98年11月20日の日記で、 と述べたことがあった。この後半部分の無数に近い原因が独立加算的に働いたりという部分について、少し修正させていただこうと思う。 いっぱんに物事は、原因が加算的に寄せ集まって生じる場合と、積算的に組み合わさって生じる場合がある。前者は、論理和もしくは「or」、後者は論理積もしくは「and」と言ってもよいかと思うが[※]、いずれにせよ、原因が加算的にに寄せ集まるだけでないことを説明しておく必要があった。論理学や論理演算の難しい話は分からないけれど原因をA、B、C、Dとか、P、Q、R、Sというように列挙した場合、ある現象Xに対して X1=A+B+C+D... というように加算的にはたらく場合と、 X2=P×Q×R×S・・・ というように積の形で影響を及ぼす場合がある。もちろん最終的には、加算部分と積算分がさらに組合わさった多項式のような構造をとるものと思う。 ※2/29追記 まついさん[2/28]より、論理演算は真理値(若しくは論理値)をもつ非演算子に対して、真、または偽の真理値を返す。論理和は被演算子の何れかが真であれば真を返し、論理積は全ての被演算子が真であれば真を返す。というご指摘をいただいた。まさにその通り。上記の変数、特にX1に関しては2値的な結果を返すことを想定していないので、論理演算の議論を持ち込むことはできない。ここは、きわめて稚拙な「数量モデル」として議論すべきであった。ご指摘ありがとうございました。訂正させていただきます。例えば、いま大学で行われている一般入試の場合は、各科目の得点が「A+B+C+D」というように加算されて、その結果として合否が決められていく。個別科目の「足切り」が行われない限り、科目Aが0点でも、科目Bで高得点を取れば同じ結果になる次第だ。そういう意味では、A、B、C、Dは相補的な関係にあるとも言えるし、見方によっては因果的説明というよりも境界条件の明示と言ったほうがよい場合もありそうだ。 一方、朝顔の種の発芽を考えた場合は、P=酸素、Q=水、R=適温...というように、それぞれの関係は相補的にはならない。どれか1つでもゼロになってしまえば、他がどのように最適条件を満たしても現象はおこらない。 こういうことを突然考えたのは、じつは、新潟県で起こった女性長期監禁事件、あるいは25日の新聞で報道された、薬害エイズの判決公判のことが頭にあったからである。 前者の場合は犯人の行為が監禁の原因、後者はエイズウィルスの混入が直接の原因であることは間違いないけれども、それだけが唯一とは言えない。 X2=P×Q×R×S・・・ という式でとらえるならば、前者では警察の対応のまずさが、後者では製薬会社、厚生省などの対応のまずさがQやR、Sなどのところに原因として入ってくるのだ。つまり ○○さえ、ちゃんとしていたら事件は阻止できたはずだ ということ。もちろん、P、Q、R、S....などのすべてが刑事罰の対象となるわけではない。例えば、「国内でナイフを一切販売しなかったら(ナイフを用いた)殺傷事件は起こらなかったはずだ」というのは論理的には正しいが、だからといってナイフを売っていたお店が処罰されることにはならない。 とはいえ、きっちり対処すべき行動に落ち度があればそれはそれで独立した過失責任となる。特に、「安全装置」として機能すべき、警察機関、各種検査機関、監査機関などは重大。怠慢行為は徹底的に糾弾されなければならない。 |
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【思ったこと】 _00305(日)[心理]「行動随伴性に基づく人間理解」その後(14):「監禁による心の傷」はどう裁かれるべきか 3/4の朝日新聞によれば、新潟県の女性長期監禁事件で新潟地検は3日、佐藤宣行容疑者(37)を未成年者略取と逮捕監禁致傷の罪で新潟地裁に起訴。しかし、監禁によって女性が受けた心的外傷後ストレス障害(PTSD)については傷害罪での立件が見送られたという。 新聞記事を見る限りでは、監禁による傷害とは、女性の両脚の筋力を低下させたという程度のことで、肝心の精神的打撃は監禁罪などに含まれるものとして独立して刑罰を適用することは殆どなかったという。 この問題は、現実に被害者がいること、暴力の内容や被害者の回復の度合いが人権保護の見地から公開できないことなどから、第三者としては取り上げにくい事件であるが、「心の傷」が客観的に検証できるものかどうかという点で、心理学に携わる者として無視できない側面をもっている。 結論から先に言えば、私自身は、「心の傷」の程度を客観的に量的に実証し、刑事罰の対象として審理のレールに乗せることはきわめて困難であると考える。 念のためお断りしておくが、「心の傷」が無かったと言っているのではない。ただ、それは事件後の短期の心理療法だけで癒されるものではない。ある部分は一生に影響を及ぼすものであろう。それを裁判の証拠という形で、短期間にチェックすることは不可能。ヘタをすると、心理療法が成功すればするほど「心の傷」は軽かったと判定されかねない。このあたり、「両脚の筋力低下」というような運動生理学的に測定可能な傷害とは同一視できないように思う。 では、どうすればよいのか。私は、他の傷害や殺人を含めて、加害者の行為が被害者の何を奪うことになるのか、その根本を問い直していく必要があるように思う。 この連載でずっと取り上げてきた「行動随伴性」の視点から言えば、人間の生きがいの根源は、「行動し、その結果として強化される」ところにある。人間らしく生きる権利というのは、楽をしながら物や金銭を必要十分に受け取る権利ではない。物や金銭を手に入れるために外界に能動的に働きかけそので努力に応じて具体的な結果を得る機会が保障されなければ、鉢に植えられた植物人間になってしまう。高齢化や病気によって介護を受けるようになっても、外界に対して何らかの能動的な働きかけが残っているはずだ。そのリパートリーを出来る限り多様化し、それぞれに具体的な結果が伴うような環境を保障することで最後まで生きがいが保障されていくのである。 この視点からみると、監禁というのは、その人が自由に移動しながら、自発されたオペラントによって好きなものを手に入れ、さらにその積み重ねることでより大きな結果を得るという基本的な権利を奪い取るという点で、あるまじき卑劣な行為であると言うことができる。監禁された被害者が毎日どのように美味しい食物を与えられていたとしても、どのように高級な衣装を着せられていたとしても、この権利を奪っているという点では同罪。これが如何に重い罪にあたるのかということを監禁罪に反映させれば、「心の傷」の程度を客観評価しなくても、無期刑以上に相当する重い罪として罰することができるはずなのだ。 少し付け加えると、仮に二人の同年齢の被害者が同時に同期間監禁され、同じような仕打ちを受けていたとする。そのうちの一人はストレスに強いタイプで、解放後早期に復帰。もう一人は、逆に強度のストレス傷害を受け、終生社会に復帰できなかったとする。この場合、加害者の罪は、前者に対しては軽く、後者に対しては重いと見なされてよいのだろうか。「心の傷」という、被害者が被った結果だけから判断すれば違いがあるということになろうが、「外界に能動的に働きかけ、その努力に応じて具体的な結果を得る」という基本的権利を奪った点では同程度に罪が重い。与えた結果ではなく、結果を与えたプロセスに関わった犯罪行為を罰するべきであるというのが、私なりの刑法観だ。 一般の傷害事件でも同じことが言える。加害者が被害者の身体に物理的な損傷を与えるというのは、
もとの話に戻るが、長期の監禁は、その期間内において被害者の「外界に能動的に働きかけ、その努力に応じて具体的な結果を得る」機会を奪っただけでなく、解放後、同じ年代の女性ならば当然自発できるはずの行動リパートリーにも傷害を与えている。それが完全に復帰するまでは監禁期間が終了したとは言い難い。保護されてリハビリに励む今の時期も、「外界に能動的に働きかけ、その努力に応じて具体的な結果を得る」機会が奪われているという点で、依然として監禁状態におかれているのである。もちろん、そういう状態をもたらしているのは病院施設関係者ではない。犯人自身に全責任があることは言うまでもないことである。 |
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【思ったこと】 _00328(火)[一般]風邪薬による保険金殺人疑惑と食物嫌悪条件づけ 埼玉県本庄市の偽装結婚・保険金詐欺疑惑で、多額の保険金をかけられていた男性は、5月から事件が明るみに出るまでに1年に7000錠を越える風邪薬を飲まされ、飲んだあとに気分が悪くなったり吐いたりしたという[3/29朝のNHKニュース]。この事件でよく分からないのは、「飲まされていた」というのはどういう強制を伴った状況を言うのだろうか。ナイフをつきつけられて「飲め!」と言われれば毒薬でも飲む人はいるだろうが、通常、人は訳の分からない錠剤を言われるままに飲んだりはしない。私などは、医者からもらった薬でも『病院からもらった薬が分かる本』というような本で、その種類や副作用を調べた上で口にしている。この男性の場合は気分が悪くなっても飲み続けていたということだが、栄養剤だと言われただけで気分が悪くなってもなお飲み続け、あげくの果てに死に至るというのは、食物嫌悪条件づけをテーマに修論研究をした私にとっては到底信じられないことだ。 食物嫌悪条件づけというのは、「食物(錠剤)」の摂取後に吐き気等の消化器系の不快症状が随伴すると、その食物を嫌いになるという学習。わずか1回の経験でも効果はてきめん。例えばサルにマシュマロのような珍しいお菓子を食べさせて、その後で催吐作用のある薬物を注射すると、そのサルはマシュマロを決して食べなくなる。同じ学習は雑食性の動物で幅広く確認されている。というか、ネズミのほうが学習能力がすぐれていると言ってもよいぐらいだ。いずれにしても、何らかの不快症状が随伴するような錠剤を大量かつ反復的に飲み続けるということは、よほどの強い信念(例えば、これを飲めば癌が治るというような)が無ければ決してできないこと。奇妙な事件である。 保険金殺人で最も恐ろしいのは、発ガン物質をこっそり料理に忍ばせることだろう。発ガン物質の中には摂取しても何の不快症状も伴わないものもある。だからこそ、発ガン性のある食品添加物の規制が遅れてしまうのだ。もし、有害な食物が嫌いになるような学習システムが完璧にできあがっているならば法的な規制は要らない。有害な添加物を含んだ食物は誰も買おうとしないからである。 事故死を装った保険金殺人は、事故発生の文脈がきわめて明瞭であるため捜査はしやすい。容疑者のアリバイの有無も有力な手がかりとなるだろう。しかし、今回の疑惑のように長期間にわたって有害物を摂取させる場合は、被害者の死因をめぐる因果関係の推定は困難になってくる。発ガン物質となればさらに立証が難しくなる。例えば、保険金受取人が契約者に大量のタバコをプレゼントし、結果的にかなり若くして肺ガンで死んだという場合、それを殺人と見なすか、偶然と見なすか、判断は難しい。仮にその受取人が自白をしたとしても、タバコを贈っただけで保険金殺人として立証できるかどうかは疑わしいところだ。 では、どうすればこの種の「殺人」を防げるのだろうか。答えは簡単だ。それは、 人が死ぬことで儲かるようなシステムをこの社会から無くすこと。 具体的には生命保険およびその特約の支払い限度額を
保険会社が本来の互助精神から外れて、無節操に契約額を増やし、それを株などに投資して莫大な得ようとしたことが、他人名義の契約や、多額の給付金を受け取れるような仕組みを許容してしまったのであろう。そもそも保険会社が集めた金で株価が上下したり、日本経済が影響を受けること自体がおかしい。保険会社肥大化の背景にはそれで得をする政治家もいるに違いない。民放もCM収入のお得意様として批判できない事情があるのだろう。 |
この連載は2000年版その2に続きます。 |