じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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最近の大学教育論議でおもふこと[2000年版その1]


昨年から続けている連載の続きです。

【思ったこと】
_00121(金)[教育]最近の大学教育論議でおもふこと(10):FDについての本格的な議論始まる

 金曜日の夕刻から、全学教務委員会主催の「FDに関する連絡協議会」が開催され、文学部のFD委員をつとめる私も出席した。会議では各学部のFDの現状報告のほか、「学生からのフィードバック情報による授業改善..」というテーマで、他大学教授による基調講演が行われた。あくまで大学内部の会議であり、講演も不特定多数に開かれたものではなかったのでここに詳細を記すことはできないが、そこで提起された一般性のある問題に限って、私なりの感想を述べてみたいと思う。

 まずFD(ファカルティ・ディベロップメント)とは何かということだが、これにはいろいろなレベルがある。狭い話題から広い話題に列挙してみると...
  1. 個別の授業における指導方法の改善。講義の進め方、プリゼンテーションの仕方、受講生からの質問への対応、学生による授業評価の活用など。
  2. それぞれの大学、学部における教育理念を明確にした上で、履修させるべき授業の種類や量を検討すること。例えば教養教育や外国語教育をどうするか、履修登録科目数に上限を設定すべきかどうかといった問題がこれに含まれる。
  3. 履修コース、学科、学部、大学院など改組、あるいは教育センター設置などの組織改革にも踏み込むような議論
  4. 教育に熱心に取り組む行動を積極的に評価するシステムの確立。研究と教育のバランス。教官個々人の研究業績と同様に教育業績をいかに評価するか。「講座費より科研費」とか「研究費の重点配分」に対して教育予算をどう配分していくべきかといった問題。
といったことになるかと思う。私の学部のFD委員会では少なくとも上記3.までは検討項目に含まれているけれど、大学によってはいろいろなしがらみもあり、建設的な方向で議論が進まない所もあると聞いている。

 さて、今回の会議の後半では、「学生からのフィードバック情報による授業改善」という内容の基調講演が行われた。これは上記の検討項目で言えば1.に該当するもの。組織や予算に絡む議論がどうあれ、教官個人がその気になればいつでも導入できるような話題であった。

 講演ではまず、学生による大学授業への評価を国別の比較した調査データ(出典は聞き逃してしまった)が紹介された。それによれば、授業を「満足」、「不満」、「【授業内容が】分からない」と答えた学生の比率(「分からない」の比率は長谷川が100%からの残りとして算出)は、
  • 米国   80.9 : 13.2 :  5.9
  • フランス 71.6 : 16.4 : 12.0
  • 中国   32.6 : 49.2 : 18.2
  • 日本   19.0 : 59.5 : 21.5
  • 韓国   12.3 : 80.8 :  6.9
となっており、儒教型のトップダウン教育を行う韓国がいちばん評判が悪いこと、日本の場合は、おなじく不満度が高い上に、「【授業内容が】分からない」と答えた比率がいちばん多いという特徴をもつことが指摘された。もちろん、この種の比率は、どういうレベルの大学のどの授業について調査したかによって著しく変わるものであるし、「満足」の質的内容についても検討を加える必要があるが、きわめて大ざっぱとは言え、日本の大学の授業に何らかの改善が必要であることを示唆するものとなっている。

 講演では引き続いて、学生から授業評価を受けることによってどういう改善がなされたのか、「大福帳」と呼ばれる教官・学生間のコミュニケーションがどういう効果をもたらしたのかについて貴重な体験が紹介されたが、時間が無くなってしまったので、そのことについての感想は次回以降(月曜日朝にアップの日記に執筆の予定)に記すことにしたい。
【思ったこと】
_00124(日)[教育]最近の大学教育論議でおもふこと(11)授業評価の効用

 1月21の日記の続き。21日に出席した全学教務委員会主催の「FDに関する連絡協議会」の後半に行われた
学生からのフィードバック情報による授業改善
というテーマでの他大学教授による基調講演を拝聴して思ったことを述べてみたいと思う。なお、前回もお断りしたように、この会議は不特定多数に開かれたものではなかったので、ここに詳細を記すことはできない。あくまで、そこで論じられた一般性のある問題に限って、私なりの感想を述べてみたいと思う。

 講演の最初は、「学生による授業評価」によって授業がどう改善されたかという話題だった。配布された資料では学生による23の評価項目が紹介されていた。実施1年目と2年目の肯定率(「ハイ」または「ヤヤハイ」)を比較してみると、
  • 「黒板OHPの字は読みやすい」が1年目の34%から92%に増加
  • ほかに「学生が意見表明することを奨めている」、「学生を討論に参加させようと努力している」、「クラスのペースに授業をうまく合わせている」などで、肯定率が飛躍的に増加
そのいっぽう
  • 「常に授業の準備をよくしている」は1年目が97%、2年目が98%と最初から高い比率であった(=天井効果)ためにほぼ同率
  • 「授業に情熱をもっている」、「休講がなく、時間も厳守する」、「説明は明快で理解しやすい」なども、もともと80%以上の肯定率があったために顕著な変化は認められない
  • 「ユーモアのセンスを持ち合わせている」は24%から32%、「授業を実験・教育実習・教育実践等と関連づけようとしている」は35%から47%というように、改善は認められたものの依然として低率
というような結果があったという。

 このほか、2年目から3年目、3年目から4年目というように実施を重ねるとあまり増加が見られなくなり、授業評価を受けることによる教官側のモチベーションが必ずしも高まらなくなることが指摘されていた。

 以上の結果を拝見したところ、学生による授業評価によって改善されるのはいわば授業の欠陥部分。それが補われた段階でさらに
  • テーマそのものへの理解度を増すためのヒントが得られるのか
  • あるいは学生が主体的に問題をみつけたりそれを解決するために必要な方法を確立する力を養うにはどうしたらよいか
  • 学生がグループに分かれて協力しあって問題解決をするにはどうしたらよいか、
という点で、授業評価結果から改善に役立つ有用な情報が得られるかどうかはかなり疑問であるように思った。また、評価項目の設定のしかたにもよるだろうが、評価結果をあげることばかりを気にしていると、
プリゼンテーションが上手で適度にユーモアのセンスがあり、物分かりがよい先生
になることはできるが、
学生にハードな課題を与え、嫌われながらも徹底的にしごく
というような教授法は廃れていく可能性がある。

 上にも述べたように、とりあえず自分の授業の欠陥や問題点を知る手段として授業評価を受けることには意義があるが、それをもって大学教育の根幹を改善しようとすると、予想外の種々の問題が起こってくる恐れもあると感じた。

 講演の後半では、毎回の授業において学生からのフィードバック情報を取り入れる工夫についての紹介があった。これについての感想は次回以降に述べさせていただくことにしたい。
【思ったこと】
_00209(水)[教育]最近の大学教育論議でおもふこと(13)公認カンニングペーパーも良いかも

 2月8日の日記に続き。「大福帳」の講演の中で「公認カンニングペーパー」という言葉がチラっと出た。この先生が言われていたのは「大福帳」を試験に持ち込んでよいという趣旨ではなかったかと記憶しているが、そこからの連想として、カード1枚のみ持ち込み可という試験を行うことは意味があるのでは?とふと思った。

 私の授業の場合、成績の評価方法としては、
  1. 授業中に4〜5回行われる小テストの合計点による評価
  2. 提出リポートによる評価
  3. 期末に行われる試験による評価
という3通り(もしくはその併用)を取り入れている。

 このうち1.は授業の進み具合に合わせて実施されるので、受講生自身にとっても理解度をチェックするよい機会になる。また教える側も、全員の成績が悪ければ教え方に問題ありと反省せざるをえず、次回に補足説明を行うというよう形で対処できる。このほか、小テストを受験させることで結果的にサボりを無くす効果もある。

 しかし1.の場合、授業時間の一部がテストに充てられてしまうために、全体の授業時間がそれだけ削減される。いまのように半期15回を2単位とするセメスター制のもとでは、小テストにあまり時間を割くわけにはいかない。

 次に2.の場合だが、教官の知らない場所でリポートが作成されるため、本人が自力でちゃんと取り組んだのか、友達どうしで教え合ったのか、誰かに全面的に手伝ってもらったのか判別がつかないという問題がある。以前アジア系の留学生を教えたことがあった。この留学生、英語の講読の授業中に指名しても全く答えられない。「英語→日本語」の訳ができないばかりか、英語そのものの発音ができなかった。ところが期末に提出を求めたリポートでは完ぺきに近い訳を持ってきた。どうやら、その留学生の配偶者(別の分野の大学院生)に100%手伝ってもらった可能性が高いのだが、一人だけ呼び出して口頭試問をやるわけにもいかなかった。

 このほか2.は受講生が多いと採点に多大な時間を要するという問題がある。本来、提出されたリポートには赤ペンを入れて返却することに教育的意味があるのだが、受講生が50人とか100人になるとたいへんな労力が要る。

 さて、今回取り上げる「公認カンニングペーパー」は、最後の3.に関連するものである。いっぱんに期末試験といえば、「教科書・ノート・配布資料のみ持ち込み可」か「持ち込み一切不可」とするのが一般的だ。私は4〜5年前まではもっぱら「持ち込み可」の試験を続けてきたが、学外非常勤講師として短大や看護学校で教えていると、「持ち込み可だったらその場で読めば分かるだろう」という妙な安心感ができてしまって、ちっとも試験勉強をしてこない学生が多いことに気づいた。しかし、「持ち込み一切不可」にしてしまうのもちょっと酷だし、暗記主体の試験勉強を求めてしまう恐れもある。

 そこで、例えば、B6版の京大カード、あるいは通常の名刺サイズのカード1枚を「公認カンニングペーパー」として持ち込み可とし、そのカードには何を書き込んでも自由とすれば、事前の試験勉強もやりやすくなるのではと思いついた次第。例えば、英文専門書講読の授業であれば、訳文をぎっしり書き込んできてもよいし、単語集であってもかまわない。とにかくカード1枚に学んだことを集約するという作業をすれば結果的に試験勉強をしたことになる。さっそく来年度の一般教養科目などで取り入れてみようと思う。もしすでに似たようなシステムを実践されている方がおられましたら、お互いを更新する掲示板に情報をいただければ幸いです。

【思ったこと】
_00307(火)[教育]最近の大学教育論議でおもふこと(14):飲酒、エイズ、喫煙と言えば...

 昨日、来年度新入生ガイダンスを円滑に実施するための教員研修会があり、教務委員とFD委員をつとめている私も参加した。会場では、来年度新入生に配布される予定の冊子類が披露された。印刷中のシラバスを除いてもその総数は10数点にのぼる。大学マークつきの特製紙バッグに入れられており至れり尽くせりだ。

 配布書類は、「君が大学に求めるものは?」といった理念的なものから、入学案内、履修登録の手引きなど。いずれもカラフルな表紙のほか、殆ど漫画と言ってよいようなイラスト入りの説明もふんだんに取り入れられている。文字onlyの注意書きでは読んで貰えないとの配慮なのだろう。

 そんななか、新入生の勉学指導とは別に、学生生活上の諸注意を促す面白い冊子を何冊か見つけた。

 まず、「お酒とつきあうためのガイドブック」。いきなり、「体に入ったアルコールはこんなに長い道をたどる。」というストーリ漫画から始まる。そのあと、8つの「LIFE STAGE」、途中に「適正飲酒の10か条」、巻末には「人がお酒とともにつちかった文化がある」というストーリ漫画がそれぞれ配置され、「いかに読ませるか」に最大の配慮がなされているように見受けられた。

 よく見ると、この冊子を編集したのは某ビール会社。そのせいか、漫画やイラストではビール瓶や缶ビールの絵が多いような気がする。ウィスキーが出てくるのは「理性を呼びさませ! アルコール依存症は悲劇的な病だ。」という依存症を警告する部分のみ。そういや、このビール会社、ウィスキーは造っていなかったような。

 多少揚げ足取りになってしまったが、冊子自体は飲酒の問題点を分かりやすく解説しており、価値の高い冊子であると思った。

 もっとも、よく考えると、新入生に「お酒とつきあうためのガイドブック」を配布することには別の問題が無いわけではない。現役受験生が大学に入学する年齢は18歳。ところが法律では「未成年者飲酒禁止法」(1922年公布・施行、1947年改正)により20歳未満の飲酒は禁止されているはずなのだ。もちろんこの冊子でも2ページを割いて、「20歳までは、お酒のデンジャラス・ゾーンに踏み込むな!」と警告をしているが、法律をタテに禁酒を呼びかけるならば、他のアドバイスは2回生になってからでよい。

 このあたり、どう考えるべきなのか。現実にそぐわない法律なら変えるべきであるし、法律を厳守させる意義があるなら罰則を設けて取り締まらなければならない。道路交通法でもそうだが、違反が当たり前と見なされるような決まりが多すぎることが逆に守るべき部分まで軽んじられる弊害をもたらしているようにも思う。

 次にエイズ対策の資料が目をひいた。保健管理センターからの配布書類の中には『打ち明けてくれてありがとう』というエイズ教育研究会発行のISBNつきの書籍が入っていた。最近話題の結核などに比べると、大学内でエイズが深刻な病気として蔓延しているわけでもない()のになぜそこまで、...と常々思っていたところだが、最近、どうもエイズ教育の目的は、エイズ防止以外のところにあるのではという気がしてきた。
もちろん、日本国内で薬害エイズについて十分な理解が得られていない現状、世界的に見てエイズが深刻な病気であること、エイズ患者に対する人権侵害があるという事実は十分に承知している。
 現在、私の知る限りでは、岡大生についての性体験の実態を調べた公的資料は何もない。しかし、卒論研究などで男女交際についてのアンケート調査を行った結果を見ると、現実に何の性体験も無しに卒業する学生はむしろ珍しい。また、これはあくまで妻から聞いた噂話にすぎないが、県立高校のレベルでも、「彼(彼女)とつき合ってる」というのは、現実には肉体関係をもっているという意味と殆ど同義になっているそうだ。

 こうなると、もはや綺麗事だけでは済まされない。といって、性交渉を大学の公的な場で直に語るのは生々しすぎる。そこで、すでに社会問題化していて口に出しやすいエイズを語ることで、併せて、性的交渉から派生する様々な健康問題を考えさせようということでは無いかと深読みしてしまう次第。もっともこれはあくまで私個人の勝手な推測。大学の公的見解とは一切無関係なので、念のためお断りしておく。

 さて、今回披露された配布書類の中でちょっと欠けているのではないかと思われるのが、喫煙についての資料。ざっと目を通した限りでは、定期健康診断問診票の中に「タバコが心筋梗塞(動脈硬化)、癌(肺癌、その他種々の癌)、高血圧などの発生を促進する危険因子であることを知っていますか」という質問項目があるだけで、特別の啓発資料は含められていなかった。

 喫煙は、個人の生活習慣病に至るきっかけとして深刻であるばかりか、大学構内のような公共の場では、周囲の非喫煙者にも迷惑を及ぼす。また、構内の歩道や建物出入口付近でいちばん多く見かけるのが吸い殻のポイ捨てだ。実際には、喫煙の場合も、飲酒同様に「未成年者は法律で禁止されている」という建前と、新入生がかなりの比率で喫煙している現実がある。人生を長期的に見れば、大学入学時の時点で生活習慣病の観点から喫煙の弊害をきっちり考えさせる資料を与えることはきわめて重要ではないかと思った。
【思ったこと】
_00308(水)[教育]最近の大学教育論議でおもふこと(15):「0点制」実施/履修登録をすることによって生じる義務

 昨年10月20日の日記(連載版はこちら)で「履修科目登録上限制」について述べたことがあったが、その後、これに一部連動するかたちで「0点制」についての議論が急速に高まってきた。

 「0点制」は、正式には「評価不能の廃止」。履修登録をした学生が、一度も授業を受けなかったり、授業は出席しても期末試験を理由無く欠席したりリポートを全く出さなかった場合、これまでは「成績評価不能」という「評価」が行われ、学籍簿原本上は履修の痕跡が全く残らないような配慮がなされていた。そのような配慮がなされるようになった経緯は今ひとつ分からないが、おそらく「評価というのは、学生が何らかの形で授業に参加してはじめて可能となるもの、一度も顔を出さない学生の評価はできない」という趣旨ではなかったかと考えている。

 ところがその制度が「イヤになったら途中でやめればよい、試験さえ受けなければ0点にならない」という、安易な履修登録行為を許容し、結果的に、登録者数300人、実際の受講生50人というようなアンバランスを生み出すことになった。

 こうした安易な登録はいろいろな弊害を生み出す。まず、受講希望者の多い教養教育科目の場合には、教室に学生が入りきらなくなるのを防ぐために事前の抽選を行うことになっている。安易な登録が増えれば増えるほど、その科目を本当に受けたい学生が抽選ではじかれる可能性が高まる。このほか、また平常の授業時にも、教官は印刷物をどのぐらいの部数用意すればよいのか見当がつかないなど問題は多い。

 「0点制」を徹底すれば、無責任な履修登録をした学生の学籍簿には「0点」がたくさん並ぶことになる。外部に出す成績証明書は「修得した科目」についての成績だけしか記されないので、そのことで直ちに就職や大学院受験が不利になるわけではないが、学生にとって大きなプレッシャーになることは確かだ。また、将来、GPAのような形で、受講した科目の平均点が何らかの評価に使われるようになった時には、0点はもろに平均を下げることにつながる。

 「0点制」実施の根本には、「お客様気分で授業を受けてもらっては困る」という考え方もあるように思う。履修登録をするということは、ある意味では教官との間に双方向の契約すること、つまり、教える側はその授業時間に誠心誠意指導を尽くすことを約束、受ける側はその時間にきっちりと出席し、質問し、きっちりと予復習することを約束、その間の信頼関係を確立する第一歩であると言える。

 もちろん、教える側のあまりのいい加減さに愛想がつきて途中から授業に出なくなるということもありうるが、そういう時は、もっと攻撃的に教え方にケチをつけてもよいと思う。学生側からの授業評価の尊重を前提とした上で、受講生側にも責任を持ってもらうというのが「0点制」ではないかと考えている。今後の議論に期待したい。
【思ったこと】
_00419(水)[教育]最近の大学教育論議でおもふこと(17)科研費優先主義?の弊害(前編)

 国立大学の講座には「実験講座」と「非実験講座」がある。「実験講座」と言っても必ずしも実験的方法で研究を進める講座という意味ではない。研究・教育にあたって、電子機器等の設備を必要とする講座全般のことであり、心理学講座も伝統的に実験講座とされてきた。いっぽう、哲学、文学、語学などは、非実験講座とされてきた。

 非実験講座の研究費は実験講座の約1/3に抑えられ、いろいろな共通経費を差し引くとノートパソコン1台を買うこともできないほどの額しか残らない。このことは、近年、非実験系の教員が情報処理機器を活用して研究・教育を進めていく上での大きな障害にもなってきた。

 ところが、今後はどの講座にも非実験講座の予算しか配分されず、残りは重点配分に回されるというように、文部省の方針が変更されたという。これによって、もはや講座費だけで研究・教育を充実していくことはきわめて困難、何らかの形で別の予算を獲得することが必要になってきた。

 そんななか、現在、学内で声高に叫ばれているのが、科研費申請の活性化である。これまで科研費は教員の個人レベルの研究活動のために申請されるものと考えられてきたが、それと同時に、申請率や採択率が重点配分の判断の重要な指標になる。もはや好むと好まざるとに関わらず、毎年最低一件は申請をしようという動きが急速に高まってきた。

 科研費を獲得するためには、具体的なテーマを設定し、それを分かりやすくアピールし、また成果をきっちりと学術誌に公表していく姿勢が求められる。このこと自体は、「研究活動の努力の量と質に応じて結果を与える」という行動分析学的視点に一致しており、望ましいことではあると思う。しかしその反面、現行の科研費配分システムには非常に多くの問題があるように日頃から感じている。時間が無いので、とりあえず問題点を箇条書きにし、次回以降に詳しい考察を述べてみたいと思う。
  1. 現行の科研費は、年度単位を原則とし、きわめて短期間の成果を求めている。このため、研究活動テーマが、短期的に結果を得られやすい内容に変容していく恐れがある。
  2. 教員の現在の業績評価は、もっぱら研究業績だけの評価に限られている。そのいっぽう、教育活動や委員会活動は殆ど評価されていない。科研費獲得が至上命題となれば、教員の関心はもっぱら「科研費を獲得しやすい研究活動」のみに向けられ、授業内容の改善や、学生指導、環境整備、就職指導などが軽んじられ、片手間的な取り組みに終わってしまう恐れがある。
  3. 現行の科研費の採択審査は必ずしも透明とは言えない。採択、不採択いずれの場合も、その理由を審査者の実名を付して公表するとともに、不採択を不服とする者の申し立てを審査する独立機関、あるいは、採択・不採択の決定が適切に行われているかどうかを評価する第三者機関の設置が求められる。
  4. 採択され配分された科研費が本当にその研究テーマどおりに支出されたのかどうか、成果が十分にあげられたかどうかをきっちりと監査・評価する機関が必要。
【思ったこと】
_00420(木)[教育]最近の大学教育論議でおもふこと(18)科研費優先主義?の弊害(中編)

 まず、昨日の日記で
現行の科研費の採択審査は必ずしも透明とは言えない。採択、不採択いずれの場合も、その理由を審査者の実名を付して公表するとともに、不採択を不服とする者の申し立てを審査する独立機関、あるいは、採択・不採択の決定が適切に行われているかどうかを評価する第三者機関の設置が求められる。
と述べたことに関して、掲示板にてある大学院生の方から以下のような情報をいただいたので一部をご紹介させていただく。なお改行、リスト、リンク部分は修正させていたただいた。
アメリカの場合(NIHやNSFへの研究費の申請:日本の科研費に相当する)、日記の中で提言されているようなシステムがすでに実現されています。
  • 審査員名の公表
  • 不採択理由の説明
  • 不服の申し立て
自分の申請は何人中の何番目の評価を得たか、そして何番目までが採択されたかまで教えてもらえるらしいです。 また、NIHは申請書そのものも公開しています。
(密かに、各種申請書を書くときの手本にしています。)
http://crisp.cit.nih.gov/

[cf.] http://jsi.bcasj.or.jp/Newsletter/JSI_Newsletter_vol7no1_p13.htm
貴重な情報をどうもありがとうございました。

 さて、今日も時間が無いので、昨日の日記で書き残した点を追加するにとどめておく。
  1. 科研費に限らずTAやRAの経費でもそうだが、実際の配分額が申請額の7〜8割、時には半分に減額されるということはよくあることだ。それを見越して、中には最初から不正にならない範囲で水増しの請求をする研究者も居ると聞くが、こうした馴れ合い?は本来あってはならないことだ。

     もし申請者が本当に必要最低限の経費を要求していたとすると、一銭でも減額されれば研究の遂行ができなくなるはず。ここでもっと文句が出てもよいし、場合によっては受給を辞退したってよいはずだ。それをあまり見かけないのは何故だろうか。

     もちろん、従来は、減額された分を通常の講座費で補う形で対処できた場合もあった。しかし、昨日の日記で述べたように、今後、すべての講座に非実験系の予算しか配分されなくなれば、そういう対応は不可能になる。どうなっていくのだろう。

  2.  昨日の日記の4.で

    採択され配分された科研費が本当にその研究テーマどおりに支出されたのかどうか、成果が十分にあげられたかどうかをきっちりと監査・評価する機関が必要。
    と書いたが、別の見方をすれば、研究というのは政策の実行と違って、研究の遂行過程で思いがけない困難にぶち当たったり、逆に予想外の発見から別の方向に展開するという場合もありうるものだ。となると、当初の研究計画を型どおりに遂行するだけが予算の適切な執行とは言い切れない面もある。しかしそういうことを含めて、適正に監査や外部評価を行うには、相当の人的コストを必要とするはず。監査を厳格にすることが、かえって税金の支出を増やすという別の問題が出てくる可能性もある。
【思ったこと】
_00426(水)[教育]最近の大学教育論議でおもふこと(19)科研費優先主義?の弊害(4)けっきょくは教員に対する多面的な業績評価の問題か

 科研費についての、とりあえずの最終回。今回は、4/21〜4/23の上京中に毎日の記録(4/20)さんやちはるの多次元尺度構成法(日記)(4/21)さんからいただいた意見をふまえて、私なりの考えを述べたいと思う。

 まず、毎日の記録(4/20)さんが
校費を研究費としてばらまかない、というのは、アメリカ型の大学経営を目指しているのだと思う。つまり、大学は教育に必要な費用は負担するが、 教官の個人研究に必要な費用は、特に理由がない限り、負担しない、ということ。 独立法人化したときに、学生に、教官の個人研究費まで負担せよ、ということは 難しくなるのだろうし、自分でお金を工面できる範囲でのみ研究ができる、という方向にすすんでいるのだと思う。
と指摘しておられるように、「実験講座校費削減、科研費全員申請」という方向が独立行政法人化の動きと一体化して進められていることは確か。またどっちにしても、学生が納入する入学金や授業料は教育のために使われるべきものであってそれを個人研究のために使うのは流用といっても過言ではない。現に、全国の大学に教養部があった時代には、教養部教員の研究費には多額の学生経費が加算され、学部専門課程の教員以上に潤っていたというような話を聞いたことがある。岡大では今年度になってから、大教室にノートパソコン画面が投影できる設備がついたり、マルチメディア学習室が整備されたりしたが、これらは、学長裁量経費が増額され、それが全学的な視点から配分された成果であるとも言えよう。

 というようなことを考えていくと、やはり、問題の焦点は科研費採択審査の透明性や決算の監査システムの整備に目を向けていく必要があるかと思う。

 科研費の審査についてはちはるの多次元尺度構成法(日記)(4/21)が述べて居られるように、審査員は当該年度が終わったあとに公表されることになっているようだ。事前に公表されると、学会年次大会でその委員と一緒に食事をして何かを奢ることが贈収賄疑惑をもたらす恐れを避けたものかと思う。それはそれとして、各審査員がどういう基準で採択、不採択の判断をしたのか、もっと具体的にそれぞれの研究申請に何ポイントを与えたのかということまで詳細に公表する必要があると思う。基本的にはスポーツ競技の審査と同様。審査委員自身の行動もあらゆる面から外部評価を受けなければならない。

 毎日の記録(4/20)さんが
公金を自由に使える特権階級ではないのだから、適正な研究計画を提示しないで、お金(=校費等)をばらまいてください、というのは、甘いと思う。今までの、天から金が降ってくる、という制度の方がおかしかったのです。
というのも正論だと思うが、そもそも、「長期間にわたる壮大な研究を行っているという名目で、実質、何もしていない教官なんて、まわりにゴロゴロ」しているとしたら、そういう教員が大学に在籍していること自体が問題。これは、結局のところ、個々の教員に対する研究業績評価、教育業績評価、委員会活動等への貢献を多面的に行うという問題につきるかと思う。現行の科研費とは別に、講座、履修コース単位での教育予算についても、教育内容(具体的な設備の必要性、履修希望者の数、卒業生の実績)に応じて重点配分化をすすめていく必要もあるかと思う。今年度は全学の関係委員に選ばれたことでもあるので、嫌われ者になることを覚悟で積極的に発言していきたいと思っている。
【思ったこと】
_00529(月)[教育]最近の大学教育論議でおもふこと(20):今どきの大学生には手取り足取りの世話が必要か

 5/28の朝日新聞大阪版一面によれば、文部省の「学生生活の充実に関する調査研究会」は、最近の大学生を
将来に明確な自覚を持たないまま『自分さがし』のために入学する学生が増えている
と規定し、「不登校の大学生をきめ細かく支援する」、「サークル活動をバックアップする」などとする報告案をまとめたという。それによれば「不登校の大学生」は各種の調査で1〜2%、それもサボりではなくて、キャンパスに足を踏み入れられない学生が増えているのだという。その原因の中には
  • 入学後、朝起きられないのがきっかけで登校しなくなった
  • 他の学生のいじめがきっかけだった
といった『対人関係失調』があるという。

 報告ではまた、伝統あるサークルが毎年消滅しているという大学もあり、新設大学では大学側が設立をお膳立てした例もあったという。これらの事例から、報告案では、サークル活動がやりやすいよう、拠点になる学生会館設置の提言、また不登校大学生に対しては登校を無理強いせず場合によっては放送大学や英検取得などにより単位として認定することも打ち出しているという。

 ここで少々思い出話になってしまうが、私が学生だった1971〜75年当時は、まだ学生運動が活発な時代で、4/28頃、6/23頃、10/21頃、それと期末試験前の時期には無期限バリケードストライキなどというものがスケジュール的に行われていたものだった。それゆえ、そもそも授業で学ぶということ自体が確立しておらず、サークルに入っていないのに熱心に「大学へ行く」と何かの過激派の活動家ではないかと思われるほどだった。そもそも授業が無いのだから不登校などという概念は無い。内ゲバはあっても、イデオロギー対立に依拠しない「いじめ」が表面化することはありえなかった。もちろん、五月病という形で方向を失う学生はいたけれど...。

 こうした目から見ると今の大学生がおとなしくなったことは確かだ。「若者による凶悪犯罪が増えているので社会的規範を重視した教育を」などと説く政治家もおられるようだが、すくなくとも今の学生、教員に自己批判を迫ったり、廊下や講義室内の壁にステッカーをベタベタと貼りまくるなんていうことはしない。特別の弾圧が無かったにも関わらず、学生運動が衰退していったというのはまことに興味深い。これは単に、ベトナム戦争集結やソ連崩壊によってイデオロギー上での対立軸が消滅したためだけで説明できるものでも無かろう。やはり何かしら学生側の「気質」変化、行動分析的に言えば「随伴性環境の変化」が影響を与えているように思えてならない。

 こうした学生の気質変化については和田秀樹氏も別の視点から強調しておられた[別途連載中?の「『受験勉強は子どもを救う』か 」をご参照ください]。和田氏の解釈は「1970年代中盤を境にして、メランコ人間(躁うつ病型)の時代からシゾフレ人間(分裂病型)の時代への変化があったという内容[p.52〜54、115〜120]であった。ただしそれが、「勃興期で、頑張れば頑張るほどいい暮らしができるが、頑張らないと貧乏しなければならない時代」から 「非常に豊かになってみんなと同じでも食べていける時代」になったためなのかどうかは定かではないけれど。

 もっとも、学生のすべてが何もしなくなったわけでもなさそうだ。先日配布されていた岡大生協の資料によれば、この生協の学生委員会には200人規模の学生が参加しているというし、その学生委員会が主催した新入生歓迎交流会には、新入生全体の過半数を超える約1400人が参加したというから驚きだ。政治勢力の影響が無くなったことで参加を躊躇するバリアが消えたこと、それと、過激派の闘争では、客観的に敗北しても「決戦に勝利したぞ」と主観的に満足せざるをえなかったのに対し、生協活動の場合は、ベトナム戦争のような外国の出来事と違ってまさに身の回りが活躍の場であり、説得力のある提案をすれば確実にそれが実現するという、具体的で適切レベル以上の結果が随伴する環境が整っていることも参加者の増加につながっているのではないかと思われる。

 いずれにせよ、もともと大学で勉学する力を持っている者が何らかの精神的な問題をかかえて「不登校」になってしまうとするならやはり問題。自分探しが完結しないために社会に出られず大学院を受けるとすればこれもまた問題。そういう意味でのサポート体制の整備は緊急の課題になっているかと思う。

 ただし、これが、“人気のない大学”の“生き残り策”[←いずれも朝日新聞の表現]とセットになって提案される点については若干疑問が残る。明確な勉学意志があるにもかかわらず何らかの精神的事情で大学に来られなくなった学生に対してサポートするというなら話は分かるけれども、最初から何の目的も持たないような者はそもそも大学に入ってくる必要は無い。親ももっと自立を促し、高卒の段階ですぐに就職させるか、あるいは特定の資格取得や技能修得を指導するような専門学校への進学をさせるべきである。「手取り足取り」でなだめすかしながら大学を卒業させてやったのでは、そういう学生は相変わらず自立できまい。そのまま社会に出れば、今度はその中で同じ問題をぶり返すことになるだけだろう。もちろんその前提として、高卒者や専門学校修了者が大卒者から差別されないような社会環境を作っていく必要があるけれど。

 なお、5/30の朝日新聞に、上記の問題に関連のありそうな記事が2つほどあったので、この連載の次回以降の議論のためにとりあえず要約しておく。
  • 広島大は、6/1から、カウンセリングの専門的研修を受けた学生ボランティアによる「ピア(仲間)サポートルーム」を開設。相談に乗る学生サポーターは現在28人。交友関係や進路問題、家庭内トラブルの解決策などの基礎知識を学ぶ養成セミナーを修了し、学長発行の認定証を持っている。広島大では、東広島市への統合移転により地域とふれあう機会が減り、サークル離れの傾向も手伝って、孤立感や疎外感から自殺する学生が目立ってきた。その一方、教官らによるカウンセリング体制では「敷居が高い」と学生らは敬遠気味だった。
  • 中曽根弘文文相は29日、「教養教育のあり方」の検討を中教審に諮問した。朝日新聞記事に記されていた論点を要約すれば、
    • 学校では受験に必要がない部分を省く傾向が強く、倫理観や幅広いものの見方が養われていないとの指摘もある。
    • 少年事件が続発していることの「処方箋」の1つとして、規範意識を持たせられるよう、早い時期から教養教育を採り入れることが発案された。
    • 中教審内部には、「幼稚園段階から、自分以外の存在を尊重する姿勢を学べるようにする」、「その上で、小、中、高校でも環境問題や歴史、文学などを素材に教養教育を進めて人格を形成する」といった意見がある。
    • 企業には「中途半端な専門教育より、教養人として洗練された人材を迎えたい」という要請が強まっている。
    • 中教審内部には「学部四年間を通じて体系的に教養教育を進める」といった意見がある。

この連載は「2000年その2」の連載に続きます。