じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

連載インデックスに戻る

刑事事件について発言すること[2000年版その2]

2000年4月3日〜

2000版その1からの続きです。

【ちょっと思ったこと】
_00402(日)性犯罪の被害届け

 強盗や窃盗、暴行・脅迫などの被害にあっても、警察に届けた人は3割に満たないことが法務省・法務総合研究所が2月に実施した「犯罪被害実態調査」で分かったという[4/2NHKラジオ、朝日新聞など]。

 この調査は数年ごとに実施されている国連犯罪司法研究所に参加する形をとったもので、無作為に選んだ16歳以上の男女3000人に面接調査。2211人が回答したという。

 4/2の朝日新聞記事では「性犯罪 被害届け出1割下回る」という見出しがついていたけれど、記事を見ると、過去5年間に性的暴力の被害にあった人は、回答した女性の約3%にあたる31人にすぎない。そのうち届けた人は3人というのが「1割下回る」ことの数的な根拠になっているようだが、この程度のサンプルで「1割下回る」という推定をしてもどの程度の確からしさがあるのだろうか。こういう比率は調査対象とする女性の年齢層や職種によっても大きく異なるように思われる。

【思ったこと】
_00408(土)[社会]新首相の「心の豊かな美しい国家」論は性悪説なんだろうか/原則堅持型人間とモラル

 思考回路さんの日記を通じて、第147回国会における森内閣総理大臣所信表明演説が掲載されているページの存在を知った。新聞に頼らなくても首相の演説内容がそっくり入手できるとは便利になったものである。

 森首相の演説内容には、今回述べることを含めて何となく耳にしたことのあるキャッチフレーズがちりばめられている。小渕政権からの継承を強調したためだろうか。演説の中には「循環型社会の構築」など実現に期待される点も多くあるけれど、「心の豊かな美しい国家」論の中の以下のくだりにはちょっと引っかかるところがある。

 戦後のわが国の教育を振り返れば、わが国経済の発展を支える人材の育成という観点からは素晴らしい成果を挙げてきたと言えます。他方、思いやりの心や奉仕の精神、日本の文化・伝統の尊重など日本人として持つべき豊かな心や、倫理観、道徳心を育むという観点からは必ずしも十分でなく、こうしたことが、昨今の学級崩壊、校内暴力等の深刻な問題を引き起こし、さらには社会の風潮に様々な影響を及ばしているとも考えられます。
 「こうしたことが、〜とも考えられます。」と「とも」を挿入している点はいかにも政治家らしい非断定的な発言ではあるが、「〜とも考えられます。」というのなら、どれ以外にどういうことが考えられるのかをすべて列挙してほしかったと思う。

 さて、ここで可能性の1つとして指摘されている点だが、見方によってはこれは

人間というものは、「思いやりの心」、「奉仕の精神」、倫理観、道徳心などについて十分に教育しないと、学級崩壊、校内暴力等を起こすものである
という、ある種の性悪説の立場にたっているとも言える。それとも、人間の大部分は性善であるが、社会環境に悪の根源があり、その欲を断ち切るための教育が必要だということなのだろうか。また、教育の不十分さが学級崩壊、校内暴力等の原因になりうるとするならば、同じ戦後教育を受けた40代、50代の人達はさらにワルになっていると考えるべきなのか。

 すべての教育がそうであるように道徳教育でも必ず「落ちこぼれ」が出てくるものだ。学級崩壊とか校内暴力とか言っても、クラスの過半数がそれに関与しているわけではなかろう。道徳教育になじまない生徒こそが問題なのであって、それを抑止するためには別の手段を講じなければなるまい。このあたりも「教育改革国民会議」でもきっちりと議論してもらいたいものだと思う。



 もちろん新首相が言われている「思いやりの心」、「奉仕の精神」、倫理観、道徳心などを育てること自体は大いに結構なことである。しかし、もしそれを教育の場面で形成するためには、別の側面も考慮していく必要がある。というのは、道徳とか倫理によって住みやすい生活環境を実現するためには、
人間は特定のルールに一致した行動をするものだ。あるいは「過去の言動や行動と整合性のとれた行動をするものだ。
という前提が必要だからである。もしこのような一貫性が無ければ、いくら熱心に教育をしても、それは状況に限定して自発される行動に終わってしまう。学校の中ではちゃんと先生にお辞儀し、ゴミはゴミ箱に、級友とは仲良くしている生徒が、いったん学校の外に出ればたちまち、ゴミはポイ捨て、気に入らない通行人にイチャモンをつけるということだってありうるだろう。思いやり精神を強調する教師が、嫌煙者の隣でタバコをふかすということも起こりうる。2000年4月4日の日記で取り上げた「原則堅持型人間」と「柔軟対応型人間」という区別で言えば、要するに「原則堅持型人間」を作らない限りは、倫理とか道徳の教育をしても効果無しという可能性が高いのである。

 時間が無くなってしまった。「一貫性のある行動」については
『受験勉強は子どもを救う』か(11) 「原則堅持型人間」と「柔軟対応型人間」について 考える(後編)
の連載として、引き続き考えていくことにしたい。
【思ったこと】
_00413(木)[社会]犯罪の起源と騒擾

 石原慎太郎・東京都知事は4/9の陸上自衛隊練馬駐屯地での発言:
三国人、外国人が凶悪な犯罪を繰り返しており、大きな災害では騒擾事件すら想定される。警察の力に限りがあるので、みなさんに出動していただき、治安の維持も大きな目的として遂行してほしい。
の補足として、12日の記者会見の中で
(阪神大震災では騒擾が起きていない点について)東京の場合はもっと凶悪な犯罪をしている不法駐留者がたくさんいる。宝石泥棒も手口が荒いし、危険な薬物が外国人によって蔓延している。神戸の不法滞在者による犯罪とは質も量も違う。それが大災害のときにどんな形で爆発するか、知事として寒心に堪えない。それに備えて演習をしろと私の責任で言ってきた。だれがそれをとがめられるのか。 ...............【中略】................ 歌舞伎町とか池袋に行ってごらんよ。十二時過ぎたらどこの国かわからんよ。日本のやくざだって、怖くて入れない。そういう現状がある。
という発言をされたという。

 ここでは、「三国人」発言問題や、外国人一般に対する差別問題とは全く別の問題として、宝石泥棒をしたり、危険な薬物を販売する組織が大災害時に治安出動を必要とするような騒擾(そうじょう)を起こすのかどうか、ちょっと考えてみた。

 この騒擾というのはあまり見かけない言葉であるが、『新明解』によれば
不平分子が集まり騒いで、社会の秩序を乱すこと。
とされている。私には、窃盗や薬物販売などの犯罪とその種の騒擾事件とは犯罪の構造が全く違うように思える。

 日記読み日記にもちょっと書いたように、その種の犯罪組織は災害時はひっそり隠れているものではないだろうか。災害直後のわずかな時間に略奪したって、いずれ捕まってアジトも露わにされるだろう。

 そもそも窃盗や薬物販売のような行動はどういう社会環境のもとで強化されるのだろうか。ここでちょっとした思考実験を考えてみよう。

 まず、自給自足で成り立つ「泥棒ばかりの島」というのがありうるかどうか考えてみよう。泥棒というのは「他人のものを盗む」ことだが、お互いに他人の物を盗んでいたのでは物が移動するだけ。生産活動が行われないから全員飢え死にしてしまうだろう。

 次に、半分が泥棒で半分が農民という島を考えてみる。この場合、もし農民が強力な武器を持っていたとしたらわざわざ泥棒などを島には置かない。あっというまに撲滅されてしまうだろう。いっぽう、泥棒のほうが力が強くて農民から意のままに物を奪ったとする。こういう状況はありうるだろうが、その場合は、「泥棒vs農民」というよりも、泥棒を支配階層とする奴隷制度と考えたほうがよさそうだ。

 このように考えてくると、少なくとも現代の資本主義社会における犯罪組織というのは、その国の経済発展に寄生し、支配階級にはならず、あくまで少数派であり続け、かつ法体系を守らずに物やお金を手に入れる集団ということになる。となれば、大災害時に無用な混乱を起こして復興を遅らせることはかえってマイナス。逆にカモとなる人の懐が豊かになるように、復興活動に手を貸す可能性だってある。

 犯罪組織にもいろいろなタイプがあるので一概には言えないけれど、一国の経済体制に依拠して収益をあげるような組織の場合は、まずは保守的になるはずだ。体制がコロコロ変わるようでは寄生できないからである。そのことがまた、いろいろな国の権力者が、犯罪組織の撲滅よりも反体制組織の弾圧に力をいれることの理由にもなっていると思う。

 国際舞台で暗躍する犯罪組織の場合、国家および国際的な警察組織があまり堅固であってはやりづらいだろうけれども、逆に戦争状態になってはもっと困るはずだ。そういう意味では、少なくとも宝石泥棒や危険な薬物販売に関与する組織は、平和主義志向であるかもしれないと思う。

 いずれにせよ、

平穏時に犯罪を犯す人=災害時に騒擾を起こす人

という図式は全く根拠がないように思う。「蛇頭など不法入国外国人犯罪常習者」による犯罪は、治安出動訓練ではなく、沿岸警備、入国管理の徹底、防犯体制の強化といった形で防止すべきもの。
【ちょっと思ったこと】
  • _00424(月)誘拐事件被害者、またも実名報道

     各種報道によれば4/20午後に横浜市保土ヶ谷区で身代金目的で誘拐された男児が5日ぶりに保護され、容疑者が逮捕されたという。この種の事件でいつも疑問に思うことだが、誘拐された男児の実名や通学先、父親の実名や職業まで報道する必要は全くないと思う。日本国内で何が起こっているのかという事実はフィルターをかけずダイレクトに伝えられるべきであろうと思うけれども、Topニュースで大々的に取り上げる意義がどこにあるのか、なぜ実名報道をする必要があるのか、報道機関は考え直してほしいと思う。

     事件を大々的に報道することの最大の意義が、同種の事件の再発防止にあるとするならば、その力点は、利用者を特定しにくいプリペイド式携帯電話の問題にあるだろう。この種の携帯電話は昨年末の時点で13万台の利用者があるそうだが、身分確認をしないままに利用できるものもあるという。この背景には、料金徴収に必要のない個人情報の収集を禁止した郵政省のガイドラインがあるというが、このあたりを重点的にとりあげてもらいたいものだ。このほか、男児が連れ去られた時には同級生が一緒に歩いていたというが、父親が警察に連絡するまでに2時間ほどの遅れがあったのは何故か、この種の誘拐防止のために学校がどういう指導をしていたのかということも重要なポイントとなる。いっぽう、容疑者のアパートの隣人や、逮捕された旅館の従業員の談話などは事件の本質にはあまり関係ないように思った。いずれにせよ、無事に保護されたとはいえ、被害者側の実名が報道されることで被害者本人や家族が得をすることは何もない。再発防止のために有用な情報は、仮名のままでも何ら損なわれないと思う。

この連載はさらに続きます。