じぶん更新日記1997年5月6日開設Y.Hasegawa |
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【思ったこと】 _00610(土)[一般]ボランティア活動と恋愛との類似性 6/5〜6/8のNHK教育「にんげんゆうゆう」(19:30〜、再放送は翌日の13:05〜)は「我が町の自然を守る」のシリーズ。 身近な環境保全への関心の高まりとともに、環境ボランティア活動が盛んになっています。長期的で着実な活動の中から、それらを通して生み出された成果をうかがいます。[6月番組表]という趣旨で、長年活動に取り組んでおられる方々が出演された。私はこのうちの2回分を拝見したが、どちらもなかなか示唆に富む内容だった。本日はこのうち6/6(火)の「里山をトンボで守る」について感想を述べたいと思う。 この回は、埼玉県寄居町でトンボ公園の設立に力を注いだ新井裕さんが出演。自宅の一室を開放したトンボ博物館、田んぼを借りて作ったトンボ公園、仲間とのふれあいなど、苦労話や今後の豊富を聞くことができた。 もっとも、これだけだったら、単なる美談あるいは苦労話に終わってしまい、「大変でしたねえ。」、「これからも頑張ってほしいと思います」程度の感想しか出てこない。私が興味をひいたのは、番組の最後のあたりで、新井さんが長年つとめてきた「寄居町にトンボ公園を作る会」の代表の座を降りたという点にあった。詳しい経緯は番組の中では伝えられなかったけれど、どうやら、トンボを守る運動を発展させようとするなかで、
後日ネットで検索してみたところ、寄居町のトンボを守る運動に関連して2つの会があることが分かった。 このうちの前者の外郭団体として紹介されている「むさしの里山研究会」が、どうやら新井さんが新たに設立したNPO法人のようだ。 ここからは寄居町の話題ではなく、一般論であるとお断りした上で考えを述べさせていただくが、ひとくちにボランティアと言っても
これは個人レベルにとどまる変化ではない。ボランティア組織の活動にのめり込む人が増えてくると、集まりの回数を増やそうとしたり、組織の拡大やNPO化を主張する人が必ず出てくる。特に、重い社会的使命をになった活動ではその傾向が強い。そうなってくると、そのいっぽうで、それまで自分自身の仕事の妨げにならない程度で気軽に参加してきた人たちの中には、活動が義務化し重荷になってくると感じる人たちが出てくる。組織を階層化し活動を多様化して、熱心な人と気軽に参加する人の両方のニーズに応える道を開くか、それとも、別建ての組織にして連携をめざしていくのか、こういう悩みを抱えたボランティア団体は結構多いのではないかと思う。 こうして考えてみると、ボランティア活動への参加は、ある意味では「気軽な人付き合い」から「恋愛」への発展という人間関係の問題と似たところがあると思う。気軽なレベルで時たま会う程度の人付き合いだったら長続きするが、それが恋愛に発展していくと、逆に煩わしさ、重苦しさを感じてしまい、結果的に元の気軽な付き合いに戻れなくなってしまうということがある。 ここでもういちど最初の話題に戻るが、自然保護の象徴的な存在と捉えてその活動の輪を広げていくことにはそれなりの意義を感じるが、その一方、里山を中心とした生活環境全体の自然保護の問題に取り組んでいくためには、同時に、もっと多様な活動が並行して行われなければならないようにも思う。具体的には、田んぼをつぶしてトンボ公園を増やすのではなく、田んぼで米作りを体験しながら、それと一体となった水生動物、周辺の環境を活かす取り組み、さらには、水資源と排水、物の生産と消費を取り組んだ循環型社会を作る取り組みというものが求められる。この点では「里山をトンボで守る」ことには敬意を表しつつもやはり限界を感じざるを得ない。やはり基本は、循環型社会の中で自然環境を守り、その結果として、トンボが至るところに増えるというところにあるのではないかと思う。 |
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【思ったこと】 _00723(日)[心理]生理人類学で「21世紀を“快適”に生き」られるか 7/21の朝日新聞に7/8に行われた日本生理人類学会・市民公開シンポジウムの話題が2面にわたって取り上げられていた。タイトルは「21世紀を“快適”に生きるには」となっており、衣・食・住にわたる快適性の実現を追求するものだという。 そもそも「生理人類学」とは何だろうか。記事によれば、「体や器官の機能を示すデータを使って人間を理解する学問」ということらしい。記事から読み取ったところでは
新聞記事ではさらに、こうした研究が、老化の原因の把握、介護者の負担、さらには介護施設の環境整備などの面で大いに貢献するであろうと解説されていた。 このように、今後の成果が大いに期待される学会であることは確かだと思うが、記事を拝見する限りでは2点ほど合点のいかない所がある。 その第一は、「快適な環境」というのは必ずしも静的、安定的な状況ではないということ。
第二の点、そしてこちらのほうがはるかに重要だと思うのだが、記事の説明を見る限りでは、「人間の生きがいは、環境に能動的な働きかけ、強化されることによって実現する」という行動的な視点がちっとも見えてこないという点だ。 この日記で何度も主張しているように、植物の最適な栽培環境を求めるのと、人間にとっての最適な環境を求めるのとではわけが違う。温度、水分、日照などを調べることで最適な静的条件が見出せる植物とは異なり、人間や動物の場合には、能動的な行動がどう強化されるのかが決め手となる。「快適な環境」とは物理世界そのものではなく、行動随伴性環境に求められるべきだと思う。 記事の中では「【老人ホームの】個室面積は約11平方メートルと定められているが、この科学的根拠がない。部屋の広さと健康の間には何らかの関係があるはずだ」という特別養護老人ホーム山王(宮城県一迫町)の大友・副施設長の問題提起が紹介されていたが、部屋の広さ自体の最適条件を求めるのではなく、その部屋でどういう行動が強化されるのかこそが検討されなければならない。極端な例になってしまうけれど、あなたが禁固2年を言い渡されたとして、24畳の部屋にベッドだけが置かれた独房と、部屋の広さは4畳半だが、ベッドの横に、インターネット端末とアスレチック器具、観葉植物セットが置かれた独房のどちらかを選べるとしたらどうするだろうか。 同じ記事に記されていた ...施設側が一方的に提供する環境とは別に、入所者が鉢植えや写真を持ち込んだり、個室で自由に過ごしたりする個人的な生活環境がある。こうした環境を自由につくり上げることを積極的に認めると、入所者の健康状態が明らかに違うという。というのは、まさに、上に述べたこと。入所者の能動的な行動が強化される環境こそが健康の源となることの証拠と言えよう。 このほか、基調講演では、複数の演者が「快、不快」について論じていた。しかし記事を拝見する限りでは、ここで取り上げられている「快、不快」は、50年以上前に心理学で話題とされその後うち消されていった「快楽説(hedonism)」的諸理論の問題点からいっこうに脱却できていないように思う。このあたりは、行動分析でなぜ「快、不快」ではなく「好子、嫌子」概念が必要になってきたかに関連づけなければならないところだが、時間が無くなってしまったので、この議論はまたの機会とさせていただく。 |
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【思ったこと】 _01008(日)[心理]ボランティア通貨 10/5の朝日新聞によれば、京都府は7日から「ボランティア通貨」を発行するという。通貨が発行されるのは3年前から府が整備を進めてきた「丹後リゾート公園」の「地球デザインスクール」事業。例えば公園づくりを1時間手伝うと25ハミー(公園のある宮津市波見(はみ)地区にちなんだ愛称)というように、空き缶を再利用したトイレや木製階段づくりにボランティアで携わった場合に貰うことができ、それらはパソコン内の通帳に記録され、100ハミーたまれば1泊2000年の公園内宿泊施設が利用できるほか、公園の窯で作った炭やパンと交換したり、パソコンの使い方を教わった時のお礼にも利用できるという。 ボランティア活動に従事することに対して通貨を与えることには一部から「ボランティア精神に反する」との異論が出るかもしれないが、私は大いに結構なことだと思う。もともと、通貨というのは、自らの労働によって手に入れたり作り出したりしたものを交換する際の利便性を増すために発明されたものである。貨幣が物々交換の代替機能を果たしているだけであれば、人々は今ほどお金に執着することは無かったであろう。その交換可能範囲が、マネーゲーム、不労所得、賄賂、罰金など、労働の価値と対応しないところまで拡大されてしまったために、ボランティア活動を報酬で雇われる労働と区別する必要が出てきたとも言える。 そこで、もう一度通貨の交換可能範囲を考え直してみる。ボランティア活動の成果をタンジブル(tangible)なものに置き換えた上で、個々の行動に伴う内在的な結果に助け合いや交流といった「交換可能」な価値を与えてみたらどうだろうというのが、ボランティア通貨という新しい概念を生み出したのであろう。 目に見えにくい価値をタンジブル(tangible)なものに置き換えるという発想は、ほんらいは行動分析的な考え方であると思うのだが(いわゆる「トークンエコノミー」はその一つ)、最近では、経済関係者、環境学者、福祉学者の間でもこれを活用しようという動きが高まっているようだ。 先日広島の「園芸療法講演会」に参加した時、受付のところに ──経済文化講演会──『新しい社会的価値観による投資と収益──芸術・環境・教育・銀行』 という講演会の案内資料があるのが目にとまった。そこでは、「芸術・環境・教育のための銀行」について この銀行はお金のために人が存在するのではなく、人々のために、貨幣は循環すべきであるという理念に基づき、その融資先は、環境配慮型生産、有機農業、教育、芸術、医療・福祉、男女共同参画社会、第三世界のフェア・トレード、コミュニティ、住宅環境改善など、社会的なテーマのプロジェクトに向けられています。という紹介が記されていた。そして、「新しい社会的価値観による投資と収益に関する「智慧の銀行」をめざして「シンクバンク研究所」を設立する」という。 この「智慧の銀行」自体は、新しい「通貨」の発行を目ざすものではなさそうだが、旧来の貨幣の交換価値を見直すという点では、上記の「ボランティア通貨」と同じ発想に基づくものであると言えよう。 「通貨」には以上述べた「交換価値」に加えて「貯める」ということの意義もある。「貯める」というと不正蓄財のようなものを連想してしまいがちであるが、本質は、刹那的な価値、短時間で消失してしまう価値をより長い時間的スケールのなかで見直し、累積されることにもっと大きな意義を見出していこうという発想にある。 |
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【ちょっと思ったこと】
ヤギサミット 10/20朝6時台のNHKニュースで、都会でヤギを飼う話題が紹介されていた。ヤギによる除草効果は農水省のデータでも明白であり、「名古屋生活クラブ」は都会でヤギを飼育しやすい環境を作るため関係省庁に働きかけているという。10/29には、愛知県岡崎市では全国山羊サミットが開催されるとか。動物による除草については9/25の日記および1999年5月27日の日記でふれたことがある。大学構内でもぜひヤギによる除草を進めたいものだ。 <10/20追記>上記の番組は、まず名古屋城のお堀の中継から始まった。最初に、放し飼いのシカが登場する予定だったらしいが、どこかへ移動してしまって残念。こちらの方もずいぶん慌てたことと思う。 |
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【思ったこと】 _01031(火)[一般]生協食堂の残飯を減らす方法 夕刻、環境問題関連の委員として、汚泥・生ゴミの処理の研究者からアドバイスを受けた。その中で生協食堂から出てくる残飯をどう処理すればよいかということが話題になった。 私の記憶が正しければ、現在のところ、毎日食堂から出される残飯の総量は40kgほど。それらはいったんゴミ専用の冷蔵庫で保管され、有料ゴミとして回収され焼却処分されている。これを何とかリサイクルできないかという話だ。 資料によれば、この種の生ゴミは、「し料」(飼料)もしくは「ひ料」(肥料)として再生可能であるという。 前者はブタのエサとして活用するものであり、エネルギーの効率活用という点ではこれが最も望ましい。もっともブタに与える前にはいったん再加熱するらしく、その際にエネルギーを消費する。また、ブタの排泄物をどうするかという二次的な問題がつきまとう。これが面倒なために、廃業・転業を強いられた養豚業者も多いとか。 後者の肥料化では、巨大なコンポスト装置に入れ、加熱して発酵させる。処理工程の決まった作業を反復するバッチ型の装置と、常時投入型(新しいゴミをそのつど投入していく型)がある。一例として紹介された常時投入型の装置の場合、300〜400万円の購入費のほか月に10万円以上の電気代がかかる。生ゴミ自体は有効に再利用されるものの、そこに投入される電力、その発電による環境負荷は無視できないように思われた。 この専門家のお話によれば、一般にはゴミを燃やすのは環境に悪いと言われるが、燃やさなくても処理工程では一定量の二酸化炭素を発生させる。これは森林資源でも同様。植林は地球に優しいように思えるが、その材木で家を建て、何十年か後に解体された家の廃材を焼却すれば結局は地球温暖化の一因となってしまう。二酸化炭素の発生を本当に抑えるためには、材木を炭として長期保管するか、もしくは珊瑚の力で石灰化するしか無いという。環境問題はなかなか難しい。 もとの生協食堂に話を戻すが、一日に残飯量40kgというのは、10年ほど前(生協設立以前に営業していた)共済会食堂時代に比べればかなりの減量になっているとか。共済会食堂時代はもっぱら定食中心のメニューであったのだが、これでは小食の人も好き嫌いの多い人も同じ分量の料理を受け取るので食べ残しが出てくる。生協食堂は、ディッシュや小鉢物などの単品料理が主体となっているので、利用者は食べたいものを食べたい量だけ選ぶことができる。最近ではさらにサラダバー形式で、サラダのほかに焼きそば、チキンライス、各種総菜物も選べるようになった。よほどのことが無ければ食べ残しは生じない仕組みになっているわけだ。 ではさらに食べ残しを無くすにはどうすればよいか。そこで私が考えたのは、 完食をした人には割引券を発行すればよい。 というものだ。もっとも時には、固すぎて食べられないハンバーグ、味の濃すぎるラーメン、芯の入ったライスなどもあるかもしれない。そこでボランティアが常駐し、残した原因が利用者側にあるのか、提供者側のミスにあるのかを判定する。利用者の申し立てが通ったときは払い戻しということにすれば文句も出てこないように思う。 余談だが、私が小学生の頃、給食後の残飯運びで苦労した記憶がある。ただでさえまずそうな脱脂粉乳とフライやソースがまざったバケツは見ただけでも吐き気がしたものだ(私がフライ物をあまり好まない原因は給食時代の、この体験にあるようだ)。 だいぶ前の話になるが、今年の4月17日の朝日新聞で、中学校で「給食嫌い」による食べ残しや昼食抜きの中学生が増えているという記事が載っていた。これを改善するために、リクエスト給食や、セレクト方式、バイキング方式を取り入れる時自治体も増えているとか。 同じ記事によれば、公立中学の給食実施率は約75%。弁当持参の中学では昼食抜き、あるいは菓子パンとジュースで済ませる生徒が出ており、最近では給食を始める動きが出ているという。その一方、一律同じメニューとせず、自分で選ばせる方式が増えつつあるという。栄養指導などいろいろな問題はあるものの、残飯対策という点ではセレクト方式、バイキング方式に踏み切らざるを得ないところがあるように思う。 |
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【思ったこと】 _01102(木)[一般]「リサイクルは環境破壊の免罪符にはならない」という発想 10/31の日記で、生協食堂から出される残飯をどう処理するかという問題を取り上げた。そのさい、巨大なコンポストを活用すれば肥料(堆肥)へのリサイクルができるが、300〜400万円の設備購入費のほかに、毎月10万円以上の電気代がかかるという問題点を指摘した。 これに限らず、「リサイクル」、「再資源化」というのは、我々の知らないところで相当のエネルギーを消費してしまう恐れがある。ゴミの分別回収、あるいは再生品の購入促進という形では地球環境は決して守れない点にもっと注意を向ける必要があると思う。 11/2の朝日新聞オピニオン欄に、「ごみをどうする」という連載の最終回が掲載されていた。その中の市民団体代表・羽賀育子さんの記事を拝見して、そうそう、私が言いたかったことはまさにそういうことだったのだと思った。 注意したいのは、リサイクルは大量生産・消費の免罪符になる可能性があるということ。十五年前、私は牛乳パックの回収運動に取り組みました。ところが、その運動が紙パックのはんらんを招き、びんを追いやる結果になったんです。リサイクルされるんだから、いくら作っても使ってもいいんだ、と。さらに、リサイクル自体、ものすごいエネルギーとお金がかかる行為です。リサイクルだけでは循環型社会はできないんですよ。この問題に限らず、我々は、目に見える物質レベルでの再資源化ばかりに注意を向けてしまいがちであるが、その過程でどれだけのエネルギーが投入されるかということは殆ど知らされていない。リサイクルのコストを下げることと省エネルギーは別問題であることにも留意する必要がある。 地球環境を保護するために何がムダで何が有効利用になるのかということについても、固定観念を無くすべきだろう。例えば、
余談だが、私が子どもの頃は、燃えるゴミはお風呂を沸かす時の燃料に使ったものだ。ダイオキシンの問題が出てきたのは、紙や木材以外の物を燃やしたためであって、本来は別次元の問題。有害物が出ないことを前提とした場合、
いろいろ書いてみたが、いまの時代、我々は「物を作る」ことばかりでなく「いらない物を処理する」ことにおいても、人の手にゆだねるようになってしまった。「物を作る」ことから疎外されたことは生きがいの喪失の一因にもなっているが、「いらない物を処理する」ことから疎外されることは、環境との関わりを分かりにくくし、平気でゴミを捨てる行為やリサイクルについてのさまざまな固定観念を生み出しているとも言える。 羽賀さんが指摘しておられるように、「ある物をリサイクルすればいくらのコストとエネルギーがかかるのか、といったすべての情報を公開すること」はどうしても必要。そして何よりも、行動科学の面から「地球に優しい消費」のあり方について研究を進めることが大切であろうと思う。 |
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【思ったこと】 _01105(日)[心理]しごと、余暇、自由、生きがいの関係を考える(14):価値観と行動 別の大学院に通う方からEメイルで価値観と行動に関して次のような質問をいただいた。ちょうど関連する資料を集めている最中でもあるので、これを機会に私の考えを述べてみることにしたい。 ご本人から了承をいただいたので、初めにその質問を引用させていただく。なお、原文は1つの段落から構成されていたが、引用の必要上、文章をいくつかに分け、長谷川のほうで番号をふらせてもらった。 【価値観について勉強しているうちに】まず、結論から先に言うが、私は人間の行動を「価値観」という言葉で説明しようとすること自体に無理があると思う。「価値観」という言葉が使えるのはその多様性を強調する場合だけだろう。 『行動分析学の基礎』(Malott et al., 2000, ISBN 0-13-083706-7]の著者のマロットは、「価値」を次のように定義している。 Value価値:Learned and unlearned reinforcers and aversive conditions. 習得性好子または習得性嫌子。この定義はあまりにもあっけなく、読む人によっては「価値を侮辱するもの」、「価値概念の価値を低下させるもの」と受け止めかねない恐れがある。しかしじつはこの定義は、世の中の何に価値があるのかには一言も触れていない。あくまで、世の中に存在する価値は、一般の習得性好子や習得性嫌子と同じプロセスにより、経験を通じて形成される。ということを意味している。つまり、価値の中身を規定しているのではなく、価値の作られ方を述べているにすぎないのだ。このほか、価値はまたただ所有するのではなく、行動と一体となって初めて高められるという点にも注意する必要がある。 上記のような形で「価値」が定義され、ある個人の習得性好子のリストや優先順位が示されたとしても、どういう行動が強化されているのか、という肝心な知識がなければ行動を説明するわけにはいかない。例えばモネの絵が習得性好子になっていたとしても、同じ行動をとるとは限らない。モネの展覧会に行く行動が強化されるかもしれないし、モネの絵はがきを集める行動が強化されるかもしれない。価値観とか何とか言ったところで、結局は、どういう行動がどういう好子によって強化されているのかを問題にしなければ、その人間を理解したことにはならないのである。 さて、もとの質問の3.と4.で引用されている実験だが、原典が分からないので何とも言えないが、もしその実験者が「リサイクルをすることがいいことだという教示を与え」ただけで被験者の「価値観」を変える操作を行ったと考えているなら、あまりにも浅はかすぎると言わざるをえない。仮に、その教示を与えられた被験者が「リサイクルは良いことだ」という質問に肯定的な回答をするようになったとしても、それだけで行動が変わったなどということはありえない。しいて言えば、「リサイクルは良いことですかという質問にそうだと答える」という言語行動程度は変わったかもしれないが.....。本当に行動を変えようとするならば、まさにリサイクル行動そのものを強化するほかはない。その実験では行動を何も強化していないのだから、変わらないのは当たり前。驚くには当たらない。(というか、この実験は、「教示だけで強化しなければ行動は変わらない」という証拠を示したものと言えるかもしれない)。 次に「『リサイクル行動を実際に行動として観察されなかった場合、その人はエコロジストとは言えない』のでしょうか? 」というご質問だが、それは何をもってエコロジストと呼ぶのかという定義によってどうにでも変わると言わざるを得ない。資源回収活動を実際に行っている人を呼ぶのか、リサイクル団体に寄付をするだけでもよいのか、「リサイクルは大切だと思うか」という質問にYESと答える人も含めるのか、さまざまであろう。もっとも、ホンマのところは「リサイクルは環境破壊の免罪符にはならない」という発想こそが求められているのだけれど.....(11/2の日記参照)。 6.の「行動に観察されなくても認知面で変化があるという見方もありますが、長谷川先生はどのようにお考えですか?」については、上にも述べたように、リサイクル行動自体は強化されなくても、「リサイクルは良いことだ」という発言する行動、アンケートでそのように回答する行動には変化があるだろう。そういう意味では認知面には変化があると言ってもよいだろう。しかし「認知を変えれば何かが変化するだろう」などと呑気なことを言っている場合ではない。「認知を変える」と称される働きかけが、
7.の「価値観と行動を一致させるにはどうしたらよいのでしょうか。 」については、
最後の「もっと根本的な問題として、価値観というものは測れるのでしょうか。」については、繰り返しになるが、
「認知の変化」が行動を変えるのか、それとも行動が変わる中で認知が変わっていくのかという問題は、もはや人工環境の中の決定実験で争われるような議論ではない。実践場面の中で、結果的に有効なものだけが淘汰されていくだけのことだ。11/4の朝日新聞で取り上げられていた「エコマネー」などは、こうした問題を考える上で良きヒントを与えてくれるものであると思うが、時間が無くなったので次回に取り上げることとしたい。 |
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【思ったこと】 _01112(日)[心理]エコマネーとボランティア通貨(1) 11月5日の日記の続き。10/14(岡山地方での掲載は11/4)の朝日新聞記事によれば、 特定の地域内だけで流通する通貨「エコマネー」の試みが、全国に広がっている。導入を検討中のところも含めると30カ所に上り、年内には50カ所に迫る勢いだという。これとはやや性格を異にするが、10/8の日記で京都府が発行するボランティア通貨についてとりあげたことがある。こちらは、 「丹後リゾート公園」で例えば公園づくりを1時間手伝うと25ハミー(公園のある宮津市波見(はみ)地区にちなんだ愛称)というように、空き缶を再利用したトイレや木製階段づくりにボランティアで携わった場合に貰うことができ、それらはパソコン内の通帳に記録され、100ハミーたまれば1泊2000年の公園内宿泊施設が利用できるほか、公園の窯で作った炭やパンと交換したり、パソコンの使い方を教わった時のお礼にも利用できる。というものだが、今回紹介されているエコマネーは、より多様な交換機能をもつものであり、北海道栗山町「クリン」や富山市の「きときと」のように介護・福祉を目的としたもあれば、まちづくり、地域商店街活性化を目的としたものもある。 これらはいずれも、特定地域、コミュニティ内で通用する一種のトークン・エコノミー。通常の「お金」では代替できないような特定の価値を交換価値に置き換え、望ましい行動を強化しようとするものであり、行動分析の原理にかなったものと言えよう。もっとも導入にあたって、どうしたら有効に機能させられるのか、問題点はどこにあるのか、を科学的に検討する必要がある。 ボランティア通貨の意義についてはすでに10/8の日記で指摘した通りであるが、ボランティア活動以外の行動においても一般的に次のような長所をもつものと考えられる。
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【思ったこと】 _01113(月)[心理]エコマネーとボランティア通貨(2)その後調べたこと/問題点から先に考えてみると... 11月12日の日記の続き。エコマネーについてさらに詳しく調べてみた。
さて、エコマネー、ボランティア通貨、地域通貨について、これまでに得た情報だけから判断する限りにおいて、私はまだ全面的に導入賛成という立場はとれない。しかし、いま問題となっている高齢者の介護、環境保護、あるいは奉仕活動の促進を実現させるためには、これが、現状で考えられる最善の方法であるとも思っている。そこで、まず問題点(と考えられること)を先に挙げ、次回に、ポジティブな側面を強調していくことにしたい。 まず、家庭内でエコマネーを導入したらどうなるかを考えてみる。本来無償で行うべき「手伝い」、「掃除」、「洗濯」、「送り迎え」などはみな家庭内通貨でやりとりされることになる。例えば、妻は食事を作るたびに家族から「1ハセ」を受け取る。子供が家事の手伝いをした時には親から「1ハセ」を受け取る。私が息子を車で駅まで送った時にも「1ハセ」を貰うことになる。こういう通貨のやりとりで本来の家族が成り立つかどうかは誰しも疑問に思うところだろう。 では地域ではどうか。昔ながらの山村であれば、エコマネーでやりとりしなくても、盆踊りや秋祭りの準備はできるだろう。みな得意な技を活かして村のイベントの成功のために尽力する。これは娯楽ばかりでなく、森林管理、田んぼの共同作業、家の屋根の葺き替えなど、生活の基本にも及ぶものであり、そういう社会ではエコマネーは必要ない。つまり、地域社会でエコマネーが必要になるということは、それだけ個人主義的傾向が強まり、個々人の関係がそれだけ疎遠になったことの表れであるとも言えよう。 このほか、昨日挙げたようは、次のような問題点が考えられる。
4番目は、貨幣経済一般において要請される条件であると思うが、エコマネーの交換価値がコミュニティの盛衰によって激しく変動するようでは困る。例えば、エコマネーを貯め込んだものの誰もサービスを提供してくれないとか、インフレやデフレ同様の現象が起こるようでは、望ましい行動が強化されにくくなる。このあたりの管理を誰がどのように行うかが大きな課題となるように思える。 なお、以上に記した疑問点等は、文中に紹介したサイトや書籍を拝見する前に書かれたものである。今後、それらを詳しく拝見することにより、誤解している点があれば訂正させていただきたいと思っている。 |
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【思ったこと】 _01116(木)[心理]エコマネーとボランティア通貨(3)導入するメリットについて考える 11/12の日記の続き。今回は、エコマネーやボランティア通貨を導入することのメリットについて考えてみたいと思う。なお、念のためお断りしておくが、前回掲げた
さて前回の日記の中で、 昔ながらの山村であれば、エコマネーでやりとりしなくても、盆踊りや秋祭りの準備はできるだろう。みな得意な技を活かして村のイベントの成功のために尽力する。これは娯楽ばかりでなく、森林管理、田んぼの共同作業、家の屋根の葺き替えなど、生活の基本にも及ぶものであり、そういう社会ではエコマネーは必要ない。つまり、地域社会でエコマネーが必要になるということは、それだけ個人主義的傾向が強まり、個々人の関係がそれだけ疎遠になったことの表れであるとも言えよう。と述べた。しかしこのことは、エコマネーを導入することのデメリットではない。こういう個人手主義的な傾向を悲観、否定せず、現実的に交流を活発にしていくためには、むしろエコマネーを活用すべきであるという意味にもとれる。 エコマネーはまた、ムラ社会の中でしばしば感じられる社交儀礼や通過儀礼を合理化する可能性がある。「菓子折文化」という言葉があるかどうか知らないが、我々は、ご近所や職場の同僚から特別にお世話になった時に、菓子折をもってお礼に行く習慣を持っている。これはコストがかかる上に、ダイエットをしている人にとっては迷惑にもなりかねない。といって、お金を払うのは失礼であるし、相手を怒らせることさえある。エコマネーを支払うということであればそういった遠慮は不要、受け取る側もそれを有効に活用することができるだろう。 エコマネーやボランティア通貨が一般のお金と異なる最大の点は、交換価値に制限を与えている点にあると思う。10月8日の日記で指摘したように、 もともと、通貨というのは、自らの労働によって手に入れたり作り出したりしたものを交換する際の利便性を増すために発明されたものである。貨幣が物々交換の代替機能を果たしているだけであれば、人々は今ほどお金に執着することは無かったであろう。その交換可能範囲が、マネーゲーム、不労所得、賄賂、罰金など、労働の価値と対応しないところまで拡大されてしまった.....つまり、一般のお金の場合、ギャンブル、時には不正に儲けたお金であっても、サービスと交換できる。いっぽう、エコマネーやボランティア通貨の場合は、どんなお金持ちでも自分で体を動かさない限りそれを手に入れることができない。10月8日の日記に記したように、 ボランティア活動の成果をタンジブル(tangible)なものに置き換えた上で、個々の行動に伴う内在的な結果に助け合いや交流といった「交換可能」な価値を与え.....ることに最大の意義があるように思う。 このほか、11月12日の日記で挙げたメリットについて、もう少し詳しく考えを述べておきたい。
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