じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

連載インデックスに戻る

「日本型英語」と英語「第二公用語」論(その2)


【思ったこと】
_01111(土)[言語]「日本型英語」と英語「第二公用語」論議(6)日本人には英語は無理?

 行動分析の視点から英語教育の改善をめざすプロジェクトを学生と一緒に立ち上げた。これに関連して最近読んだ『「英文法」を疑う ゼロから考える単語のしくみ』(松井力也、講談社現代新書 ISBN4-06-149444-9)は、日本人特有の英語のミスを指摘する本や、「こうすれば英語ができるようになる」本が多数出回っている中でも少々異色であり、大いに参考になる。著者は公立高校の現役の英語教師(p.6)、それだけに英語研究者や英語ペラペラの著述家のハウツー本と違って、現場の体験がにじみ出ているようにも思える。

 この本は冒頭から「第二公用語」論、あるいは「英語教育早期導入」論を唱える人たちから見れば過激と思われる発言が次々と飛び出す。いくつか拾ってみると.....
  1. 実は、ぼくは日本人には英語は無理なんじゃないかと思っています。.....そう、要はあんまり向いていない。(p.4)
  2. 英語を日本語に変換するための論理など、どんな形でも存在しないということなんです。(p.18)
  3. ものごころついた頃からのバイリンガルという状態は、一台のコンピュータに二つの全く異なるOSを混在させるようなものだと思います。.....一人の人間に二系統の思考回路を混在させることが必ずしも一つの優れた結論につながるとは限らないのではないでしょうか。一人の人間に二種類の世界観を混在させることが、必ずしも幅広い視野を持つ国際人の育成につながるとは限らないのではないでしょうか。(p.25)
  4. だいたい、今の小学校で、週にたかだか数時間の英語を導入したことで、大した効果があるとはどうも想像できません。早い段階から英語嫌いの子供を増やしてしまうのが関の山だと思うのですが.....。(p.26)
特に3.や4.の御指摘は、文部省の審議会等でも充分に検討する必要があると思う。

 この本には、なるほどそういう見方もあったのかと唸らせる指摘が少なくとも2つあった。
  • 英語の名詞は「もの」、日本語の名詞は「こと」という発想
  • 日本語には人称代名詞は存在しない。すべてその場における相手との「関係」それ自体を自称詞、対称詞として用いるという発想
次回(数日後執筆予定)はこれら2点を中心に、自分なりの考えを述べていきたい。
【思ったこと】
_01120(月)[言語]「日本型英語」と英語「第二公用語」論議(7)英語は「モノ」、日本語は「コト」という発想

 『「英文法」を疑う ゼロから考える単語のしくみ』(松井力也、講談社現代新書 ISBN4-06-149444-9)の中の“英語の名詞は「もの」、日本語の名詞は「こと」”という発想」について考えてみることにしたい。

 これは著者の松井氏のオリジナルの発想というわけでもない。岩谷宏氏の『にっぽん再鎖国論』という著書にすでに記されているということだが、そちらのほうは絶版になっており、どの部分が岩谷氏の見解なのか確認しにくいところがある。念のため図書館で探してみようと思っている。

 松井氏によれば、英語は「モノ」、日本語は「コト」という発想は、例えば「boy」という名詞に表れる。英語の「boy」は存在物としての少年というモノそのものだが、日本語の「少年」は、人間が赤ん坊から幼児、少年、青年、成人、老人となっていく連続的な過程の中の少年時代を表す。つまり、英語で「I am a boy.」というのは、何人もの少年というモノの1つとして私が存在していることを意味する。いっぽう日本語の「私は少年です」は「私はいま少年という時代にあります」というような意味。それゆえに冠詞は不要。

 松井氏の記述(上記の岩谷氏の記述の紹介)の中でナルホドと思ったのは、「Did't you have breakfast?」という質問の意味である。英語では朝食も1つの「モノ」になってしまうので、この質問は、「朝食というモノはあなたの前にありませんでしたか?」という意味となる。それゆえ、朝食を食べなかった場合は「朝食というモノ」を否定するので「No」という答えになる。食べた時はモノがあったのだから「Yes」と答えて当然。これに対して、日本語では「朝食をとらない」というコト自体が問題となる。この質問の日本語訳「あなたは朝食を食べませんでしたか?」というのは「朝食を食べないというコトがおこりませんでしたか」という意味となるので、食べない時は「はい」、食べた時は「いいえ」となる。確かにこう考えるとスッキリしてくる。

 「英語 VS 日本語」という発想が英語の理解にどれだけ役立つのかについては、もう少し考えてみたいところがあるが、この問題を離れて、「モノ」的に捉えるか、「コト」的に捉えるかという見方は、物事を扱う際に非常に異なった視点を与えることになると思う。

 ところで、「モノ」と「コト」は本質的にどう区別されるのだろうか。これについては種々の学問的立場があると思うけれど、直感的には
  • 「モノ」:比較的安定的で、場から独立した存在。いろいろな場に登場したり消滅したりしながら相互に関係を及ぼし合う要素。
  • 「コト」:文脈、時間、場などによって限定される特定の状態
という印象がある。例えば、ある病気を西洋医学的にとらえた場合は、病原菌とか薬といったモノをどう扱うかが主要な関心事となる。東洋医学の場合は、からだ全体の関係性の中で病気を捉えるという点で、コトとして扱っているように思われる。

 「モノ」か「コト」は、おそらく、心理学の研究においても異なる視点を与えることになるだろう。例えば、実験心理学で独立変数や従属変数という言葉を使う場合には、刺激や反応は限りなく「モノ」的に扱われる。しかしもし、操作している変数が文脈によって異なる影響を与えているとするならば、それらは「コト」として扱われなければならない。行動分析で使われる好子、嫌子はこのあたりがかなり曖昧に定義されており、例えばマロットの教科書では、好子(Reinforcer)は
Any stimulus, event, or condition
whose presentation immediately follows a response
and increases the frequency of that response
というように、限りなく「モノ」に近い「stimulus」に加えて、「event」や「condition」といった「コト」を含む概念として定義されている。しかし、好子をモノ的に捉えるか、コト的に捉えるかということはかなり本質的な差違をもたらすはずだ。このあたりは別の連載の中で論じていきたいと思っている。
【思ったこと】
_01128(火)[言語]「日本型英語」と英語「第二公用語」論議(8)岩谷宏『にっぽん再鎖国論 〜ぼくらに英語はわからない〜』(1982年、ロッキング・オン社)を借りてきた

 11/20の日記の中で、『「英文法」を疑う ゼロから考える単語のしくみ』(松井力也、講談社現代新書 ISBN4-06-149444-9)に記された、“英語の名詞は「もの」、日本語の名詞は「こと」”という発想」を取り上げた。その際に
 これは著者の松井氏のオリジナルの発想というわけでもない。岩谷宏氏の『にっぽん再鎖国論』という著書にすでに記されているということだが、そちらのほうは絶版になっており、どの部分が岩谷氏の見解なのか確認しにくいところがある。念のため図書館で探してみようと思っている。
と述べたが、本日、やっと時間がとれて、図書館に行くことができた。お目当ての本は、4階の開架式の書棚に無造作?に置かれていた。何と初版本、学生の希望により購入というスタンプが押されてあった。(ちなみに絶版という情報は松井さんの本にそう記されてあった(p.46)だけであり、その後復刻版が出されたかどうかは不明)。

 巻末の著者略歴によれば、京城市(韓国)生まれ(昭和17年1月6日)、ロック雑誌「ロッキング・オン」同人。著名な英文学者かと思っていたが、御著書は「ロック訳詞集・世紀末解体新書」「ビートルズ訳詞集」「岩谷宏のロック論集」「ロックからの散弾銃」「ザ・ポップ宣言(仮題)」など。その道では著名な方なのだろうが、音楽界に疎い私にとっては全く未知の方であった。もっとも、ご出身は、「京都大学文学部卒業」とある。なんだ、先輩ではないか。

 さっそく借りてきた本をめくってみる。本文の書き出しはいきなり
なぜ I am boy.でいけないか。日本語では当然「ぽくは少年です」でよい。
となっており、松井さんの記述のルーツがここにあることを確認できた。

 私の一番の関心事は、英語の名詞は「もの」、日本語の名詞は「こと」という発想のルーツがどこにあるのか。岩谷さんがどういうアイデアを出されていたのかという点にあった。絶版が事実であるとすると、手元に原書を置いて議論することが不可能になってしまうので、やや長めになるが、初めに岩谷さんの「モノ」、「コト」の定義に関わる記述を引用しておきたい。、
  • アル・ナイの成りたつのを「物」、アルしか成りたたないのを「事」と呼ぶことにする。(p.13)
  • 英語ではあくまでも「ないものはない!」のであるが、日本語では「ないこともある!」のだ。...............No.と「いいえ」は違うのだ! No.は「無」を指示するが、「いいえ」は、指示された事が、正しいか正しくないか、「正しくない事」を指示するのである。..........日本の世界は、日本語の世界は、なんでもかんでも、──ないこと、でさえ、ないこと、として──、とにかく"アル"という、豊かで抱括的で、安心の世界である。(p.17)
  • (日本語の)、言われた事が正しいか正しくないか、という認識の仕方は、現実的論理の世界であり、人倫の世界である。英語の世界には「世界」が前提されていない。「世界」がない。あるのは、個々のパーツ、部品としての「物」がアったりナカったりするだけである。..........(英語では「世界」すら、個別的なパーツである。.....(日本では、個々にアつたりナカつたりするパーツから世界が構成されているのではなく、むし ろ、完全な世界がつねに初めに前提されている。だから、そこでは、ナイことすら、ひとつの"アルこと"として安定・定着する。) (p.18〜19)。
  • .....英語の世界では、永遠ななにか、があったり、なにかが永遠だったりするのである が、日本には、この種の、「物」の永遠という観念はないのである。言い換えれぱ、日本には、《時間内(時間的)存在としての有限》と、これを超越する《超時間者(or 物)》という対立構造がない。(p.31)
  • 日本では、永遠が超越者(or 物)としてあったり、であるがゆえに特定の「物」に冠せられたりしないので、欧米人がともすれぱ日本人に対していだく"無節操"という感想の原因になる。しかしながら、だからこそ、むしろ日本人の方が、その日常生活感覚において、永遠を体現している、と言えるだろう。(p.31〜32)
  • 日本的感覚においては、「事」の時間内存在そのものが永遠である。すなわち、時間内存在としては、先祖から子々孫々にまでつらなる生の営みとして《いま・われ(ら)》が永遠であるし、空間内存在としては、「事」のかぎりない連鎖の拠点として《いま・ここ》が、つねに永遠である。(p.32)
【思ったこと】
_01129(水)[言語]「日本型英語」と英語「第二公用語」論議(9)同一人物であることにアッと驚く


 昨日の日記で、岩谷宏『にっぽん再鎖国論 〜ぼくらに英語はわからない〜』(1982年、ロッキング・オン社)のことを取り上げた。そのさい、岩谷氏について
その道では著名な方なのだろうが、音楽界に疎い私にとっては全く未知の方であった。
と記したが、その後Googleを使ってネット上で検索してところ、こちらの記事などから、じつは、昨日とりあげた岩谷氏と、パソコンやネットの御発言で有名な岩谷氏は同一人物であることが分かった。

 言い訳がましくなるが、別人物であろうと思い込んでしまった理由を挙げてみると
  • 『にっぽん再鎖国論』の出版元がロッキング・オン社であったことから、音楽評論や翻訳関係の専門家であると思い込んでしまった。
  • 文学部ご出身と記されてあったので、まさかパソコンやネットの本を書かれるとは思ってもみなかった。
  • 『にっぽん再鎖国論』という本のタイトルから、昨今のインターネット普及には否定的な考えをとっておられるだろうと思い込んでしまった。
  • 昭和17年生まれの方がネットのことを論じるとは思えないという世代的な固定観念(差別意識?)があった。
 もっとも、いま上で「パソコンやネットの御発言で有名な」と記したが、私個人としては、岩谷氏のお名前を聞いたことがあったというレベルであって、関連する御著書を拝読したことは一度もなかった。Googleでヒットした『PC人生相談 編 [最終回]』には、
 21世紀以降の人類の最大の課題が、貨幣制度の廃棄である。そしてこれに次ぐ大きな課題が、戦争と犯罪の絶滅である。この後者の課題の実現を、前者、すなわち貨幣の廃棄が大きく助ける。
 貨幣、戦争、犯罪、これらの共通する根っこは、コミュニケーションの不在、コミュニケーションの不能である。人と人との間におけるコミュニケーションの不在または不能、および、人とその外界・他者との間のコミュニケーション不在および不能が、貨幣、戦争、犯罪という3大悪の根本原因である
とあるが、“英語の名詞は「もの」、日本語の名詞は「こと」”という発想がネットとどう関係してくるのかがさっぱり分からない。このほか、エコマネーに関心を持っている私としては、なぜ貨幣制度の廃棄が人類最大の課題になるのかも現時点では理解しがたい。とりあえず最近の御著書を2冊ほど注文してみたので、入手しだいその根拠をさぐってみたいと思う。

 11/20の日記の後半に記したが、私が「モノ」、「コト」にこだわるのは、この発想が、実験心理学とか行動分析における刺激、反応概念の再構築にとってきわめて重要ではないかと考えるからだ。いっぱんに刺激や反応は、きわめて「モノ」的に扱われてしまう。というか、独立変数とか従属変数という扱い自体が、世界から切り離されたパーツの存在を前提としている。ところが、強化、好子や嫌子、随伴性という概念を正しくとらえるためには、どうしても「コト」的な概念的枠組みが必要になってくる。このことは以前から何とかしなければならないと思っていたことであり、1/17の日記
【好子や嫌子に関して】なぜ長年行動分析学を学んできた卒論生でも取り違えが起こりやすいのだろう。どうやらそれは、「好子」「嫌子」という定義そのものが招いた混乱ではないかと最近思うようになった。「刺激・出来事・条件」という生活体から独立して定義、かつ操作できる事象と、生活体の行動変化を観察して初めて知ることのできる機能を1つの概念の定義に含めてしまったことが混乱の最大の原因ではないかということだ。
と記した時に言いたかったのはまさにそういうことだった。つまり、本来コト的に扱うべき「好子」や「嫌子」がモノ的に扱われることが混乱を招いているのではないかということであった。
【思ったこと】
_01130(水)[言語]「日本型英語」と英語「第二公用語」論議(10)「なる」とは何か

 昨日の日記の続き。岩谷宏『にっぽん再鎖国論 〜ぼくらに英語はわからない〜』(1982年、ロッキング・オン社)のうち、makeと「なる」に関する御指摘について考えてみた。

岩谷氏は「2+2=4」に関連して、
  • 英語ではTwo and two make four.
  • 日本語で「2と2」を主語らしくあつかってみると、「2と2は(が)4になる」が、これは不自然または特殊で、自然な言い方は「2と2では4になる」
というように対比させ、
  • 日本語の「で」と「なる」を使う表現には主語はない。
  • 日本語の「なる」は決して「つくる=make」ではない。またそれは、becomeでもない。becomeは、なにか、主語であるそのもの自身が別のものになることを意味するからである。
  • 「なる」は、becomeと違って、主体の動きではなく、主体が往々にしてそれに屈従し、運命に対して受身的たらざるを得ないようにしてそれにひきさらわれていくところの「事の経過」を示す。
  • 運命的でなく、人間的・主体的なことなら、日本語でも、たとえば、「A協会とB協会が一緒になってC連合会をつくった」みたいな言い方があり得る。このような場合には「なる、なった」だと明らかにおかしい。
であると指摘しておられる(p.36〜37)。これらはかなりの説得力をもつ主張ではあるが、「なる」というものが、そこまで受け身的なものかどうかは多少疑問に思う。

 例えば、
  • 私たちは夫婦になった。
  • 息子は大学生になった。
  • 大きくなったら大臣になりたい。
  • この料理はなっちょらん。
という表現はすべて受け身的なのだろうか。もちろん、辞書をひくと「なる」には「成る」と「為る」の2つの意味が分けて記されており(ほかに「生る」、「鳴る」もあるが)、ヤマトコトバとしては同根ではないだろうか。どっちにしても「2と2では4になる」を「4は2と2で構成されている」という意味に捉えるならば「為る」ではなく「成る」になる。新明解によれば「成る」には「構成される」のほかに「行為の結果、出来上がる」という能動的な意味や、「許すことが出来る」という意味が含まれている点も忘れてはなるまい

 すでに述べた「モノ」、「コト」を含め、これらの議論は、言語表現上の問題もあれば、文化的な問題、科学的認識に関する問題、世界観や人生観にかかわる問題、日常社会への応用に関わる問題というようにいくつかの層をなしているように思える。もちろんそれらは相互に連関しているが、実用的な観点だけから言えば、とりあえず英語教育のテクニカルな問題として解決できるものもあるように思える。
この連載は2001年の連載に続きます。