じぶん更新日記1997年5月6日開設Y.Hasegawa |
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【ちょっと思ったこと】
_10302(金)[教育]「ものつくり大学」どこが悪い? KSD(中小企業経営者福祉事業団)をめぐる汚職事件で、東京地検特捜部は1日、村上正邦・前自民党参院議員を受託収賄の疑いで逮捕したという。この事件では、すでに小山孝雄・前山陰議員が逮捕されているが、事件の真相で今ひとつ分からないところがある。 新聞やテレビで伝え聞くところによれば、1つの問題は9年間で延べ約15億6千万円の自民党費を肩代わりしたり、秘書給与約2800万円を負担したことなどにあるというが、これは基本的には政治資金規制、政党への公費助成、税制、公費補助などに絡む疑惑であって受託収賄の対象にはならない。受託収賄の容疑はあくまで、「KSDの進める、ものつくり大学の設置を国策として支援するよう、代表質問などで働きかけを行い、その報酬として賄賂を受領した」点にあるようだ。 ものつくり大学の設立主旨を私なりに要約すれば、
国立大学の大学案内には理念が記されていない。私立大には理念が記されているものの、その通りの教育が行われていない場合がある。と言っておられたが、それに比べれば、上に示されている設立主旨はまことに立派なものだ。 私が疑問に思うのは、そういう立派な大学を設立するにあたって、なぜ受託収賄容疑となるような働きかけが必要であったかということだ。どうやら根本原因は、大学の設立認可や国費補助の仕組みにあるような気がしてならない。 私がさらに疑問に思うのは、なぜ「ものつくり大学」設立のためにこれほど多額の金品が動いたのか(←現時点では容疑段階。念のため)ということだ。ロッキード事件の場合は、田中角栄に賄賂を贈ることはロッキード社の得になった。リクルートコスモス事件もそうだが、汚職というのは得をする人がいるから起こるものなのである。では、「ものつくり大学」が設立されると誰が得をするのだろうか。これがよく分からない。少子化の時代、定員割れした私立大の倒産がささやかれるこのごろである。いまどき、金儲けのために大学設立をめざす起業家は居ないだろう。では、世のため人のための設立なのか。しかしそういう高邁な識見を持つ人なら決して賄賂など贈らないはずであろう。世の中には分からないことがあるものだ。 |
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【ちょっと思ったこと】
_10304(日)[教育]「ものつくり大学」その後 |
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【ちょっと思ったこと】
ものつくり大学の謎、その後 3/2の日記で「ものつくり大学」どこが悪い?という話題を取り上げた。そのなかで 汚職というのは得をする人がいるから起こるものなのである。では、「ものつくり大学」が設立されると誰が得をするのだろうか。これがよく分からない。少子化の時代、定員割れした私立大の倒産がささやかれるこのごろである。いまどき、金儲けのために大学設立をめざす起業家は居ないだろう。では、世のため人のための設立なのか。しかしそういう高邁な識見を持つ人なら決して賄賂など贈らないはずであろう。という疑問を発した。 この大学の総長に就任予定の梅原猛氏へのインタビュー記事が3/5の朝日新聞に掲載されていたが、これを読むと、上記の謎がある程度解けてくる。
3/2の日記にも述べたように、ものつくり大学の設立主旨そのものは大いに結構。「物をつくる」生きがいは、金銭的な報酬ではなく、作るプロセスと完成にあるとするスキナーの主張にも合致している。「結果的にKSDとの関係は切れ、自由な大学ができる。どんなことがあってもいい大学にしたい。」という梅原氏のお言葉に大いに期待したい。 |
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【思ったこと】 _10418(水)[教育]21世紀の大学教育(4)「女子学生亡国論」と「女子大生亡国論」 4/19の朝日新聞によれば、「女子学生亡国論」の流行語を生んだ国文学者・早大名誉教授の暉峻(てるおか)康隆氏が2日に死去していたことが18日分かったという。 「女子学生亡国論」はこちらのサイトによれば、1961年に「レジャーブーム」、「地球は青かった」、「巨人・大鵬・卵焼き」とともに話題となった流行語であり、同氏が女性雑誌で「目的もなく大学に進学する女子学生を皮肉った」[4/19朝日新聞記事]ことから議論を呼んだという。当時9歳であった私には、その当時の社会的背景を知る力はなかったが、ガガーリンの言葉や、「巨人・大鵬・卵焼き」(あるいはそれを捩った「柏戸・南海・ハムエッグ」)についてはそれなりの記憶がある。 「女子学生亡国論」というのは、私は、「一億総白痴化」、「駅弁大学」、「クチコミ」、「恐妻」などで知られる大宅壮一氏の造語の1つであったと思いこんでいた。ネットでいくつか検索した限りでは、大宅氏の造語は「女子大生亡国論」、暉峻氏のほうが「女子学生亡国論」であるように見えるが、確証はつかめなかった。どなたか情報をいただければ幸いです。 こちらによると、暉峻氏のコメントは1961年11月に『週刊新潮』で「文学部は女子学生に占領されて、いまや花嫁学校化している」とコメントされたものであり、その後『婦人公論』などの女性誌を中心に議論が活発化したという。 40年後のいま、大学生の男女比はどうなっているのだろうか。ちょうど身近なところで、昨年度の岡山大学の資料がこちらに掲載されていた。それよれば、2000年5月1日現在の岡山大学部学部学生数は10,793名、そのうち女性は4,081名となっている。また大学院生は2,514名、うち女性は642名であった。学部別に見ると(カッコ内が女性の内数)、
当時の議論はよく分からないのだが、雇用機会の不均等の状況のもとで「単に女性の比率が増えたから亡国」という主張をする人がいれば、いまの時代なら女性差別、あるいはセクハラ発言に進展しかねないゆゆしき問題となる。 いっぽう、朝日新聞記事にあった「目的もなく大学に進学する女子学生を皮肉った」という趣旨であるならば、いまの時代は、男女を問わず、さらに深刻化しているといってよいだろう。そればかりか、目的もなく、単に「社会人になるのがイヤだ」という理由だけで大学院進学を希望する男女学生も増えているという。 1961年当時であれば「目的もなく大学に進学する」ことは悪であり、その誤りは学生自身が正すべきものであると考えられていたのかもしれない。ところがいまや少子化により一部の私学では全入、努力を怠れば定員割れによる赤字倒産を招きかねない時代となった。また、社会機構の複雑化、経済の先行きへの不透明化などの外部要因によって、初めから明確な目的を持って大学に入ること自体が難しくなってきた。 そういう中で大学の役割は 明確な目的をもった学生を教育する場 から 不明瞭な志望動機や期待をもって入学してきた学生の将来の可能性を広げ、目的を具体化させる場 へと変貌しつつある。それに伴って、大学の授業内容についても、学生に(知的)満足度を与える努力が求められるようになり、「カリキュラムには大学の公益性を示す社会的契約という側面があり、教員の学術的関心のみから展開するものではない」という考えが定着するようになってきた。 さらにそれらの授業内容について、学生による授業評価も重要視されるようになってきた。少し更新が古いようだが、民間団体「大学の授業を考える会」ホームページの中で、奥島・早稲田大学総長が、 ≪学生による授業評価制度≫を早稲田大学でも導入したいと私は考えている。「学生のための早稲田」を実現するためには必要な制度だと思っている。あとは早稲田大学教師の「決意」にかかっている。とコメントしておられた。暉峻氏が同じ大学の名誉教授であられたことを考えると、ずいぶんと様変わりしたものである。 |
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【思ったこと】
_10426(木)[教育]21世紀の大学教育(4)花菱草/ポイント制による教員研究費配分と研究費の適正な執行について考える 4/27の朝日新聞によれば、鳴門教育大は今年度から、教員の業績をポイント制にし、研究費の支給額に反映させることに決めたという。記事によれば、評価は、研究、教育、学内貢献、社会貢献の4分野。研究分野では、最近5年間に書かれた論文や学術書に対して、単著5ポイント、共著2ポイント、学会公園や発表は0.5〜3ポイントなど。教育分野では指導した学生数や授業数、学会での役職や地域での講演などに応じて1〜10ポイントが加えられる。それらの自己申告に基づいて、学内の専門委員会が支給額をA〜Cの3段階に分け、基本研究費に加算されることになるという。 記事に記されている限りでは、「基本研究費」と「ポイントによる加算額」の比率が示されていなかったが、評価次第では助手の研究費が教授を上回る場合もあるということなので、かなりの影響が出てくるものと思う。 この種の成果主義は、「努力の量と質に応じて結果を与える」という行動分析の原理に通ずるところがあり基本的には賛成であるが、「プロセスではなく結果を指標として強化することの弊害」、「数量化の方法」、「評価項目」、「評価のスパン」などを十分に考慮しないと、研究・教育活動を望ましくない方向に変質させてしまう恐れもあるように思う。いくつか、思いつくままに考慮点を挙げてみると..... まず、企業などの「賃金成果主義」と同様の一般的な問題点を考慮する必要がある。3/18の日記で取り上げたように、 という点を考慮する必要がある。 次に、大学の研究・教育に固有な考慮点を挙げてみると.....
以上、思いつくままに考慮点を挙げてきたが、もっと根本的な問題として、教員の研究・教育業績を研究費の配分という形で強化してよいものかという根本的な疑問が残る。 周知のように、国立大学の場合、研究費は税金によってまかなわれる。それゆえ、研究費の使用目的は、あくまで、それが最も必然性のある形で適正に執行されることにある。いくら素晴らしい研究業績をあげたからといって、配分を受けた教員が適正にそれを使用しなければ大問題である。研究費の額が必要性でなく「ご褒美」的に配分されるとなれば、国家予算の適正執行という点から別の批判を招くことになるであろう。 となると、本来、研究費というのは、何かの成果に対してどれだけ配分するかという発想ではなく、執行の適正さという点から評価されるべきであろう。いっそのこと、国立大教員の個人研究費の支出状況をネット上で完全に公開し、各教員が何を買ったか、購入したものをどう適切に活用しているのかをチェックしていくほうが望ましいのではないか、「ご褒美的な結果」は研究費の配分ではなく、昇給や昇任のほうに反映させるべきではないかと思うのだが、いかがだろうか。 |
この連載は「2001年その2」へ続きます |