じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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英語教育と日本語文法を疑う


【思ったこと】
_20708(月)[心理]英語教育と日本語文法を疑う(1)その後読んだ本

 Web日記を書き始めて5年余りになる。過去ログを眺めると、5年前から同じ意見を繰り返してばかりいる部分がある一方、著しく考えが変わっていった部分も少なくないことに気づく。後者の代表が英語教育に関する意見である。この5年のあいだに、私は、以前とは正反対の考えをもつようになった。

 その直接のきっかけは1999年10月23日以降に開始した“「日本型英語」を使えるようになるための「Japenglish」のすすめ”という連載であった。この連載は、当時Web日記書きの間で話題になった

●『日本人はなぜ英語ができないか』(鈴木孝夫、岩波新書、1999年)

に端を発したものであったが、私自身がそれを手にしたのは2000年になってからである。自分自身がWeb日記で書いたことと同じ考えが鈴木孝夫氏の著作に示されていたことは大きな衝撃であった。

 鈴木氏はその後、

●『英語はいらない』(鈴木孝夫、PHP新書、2001年)

も著しておられる。これらは、英語教育関係者はもちろん、教育行政に関わる役人や政治家にもぜひ読んでもらいたい2冊だ。




 その後、上記とは異なる視点で「日本人はなぜ英語が苦手なのか」を考察した本に出会うことができた。それが

●『「英文法」を疑う ゼロから考える単語のしくみ』(松井力也、講談社現代新書、1999年)

であり、またその発想のきっかけとなった

●『にっぽん再鎖国論』(岩谷宏、ロッキング・オン社、1982年)

であった。『にっぽん再鎖国論』は絶版になっているが、幸いなことに岡大の図書館に蔵書があり、その斬新なアイデアに直に接することができた。




 以上が、これまでWeb日記で取り上げた内容である。その後、特に感銘を受けた本を2冊紹介しておきたい。

 1冊目は

●『アジアをつなぐ英語〜英語の新しい国際的役割』(本名信行、アルク、1999年)

である。本名氏は青山学院大学国際政治経済学部教授。「アジア英語」研究の第一人者でもある。

 本名氏は上掲書の第3章の中で、私たちの英語教育(学習)のモデルが非現実的である点について
 そのきわみは、学習者がネイティブ並みの能力の獲得を求められることである。また、ネイティブ文化の学習同化も重要視される。そして、この目標の達成が不可能なので、いつまでたっても英語に自信がなく、それを積極的に使用しようとする意欲がわかない。ネイティブと同じように話せないと、ちゃんとした英語ではないと思ってしまうのである。
と述べ、その結果として
  1. 学習者は無力感と劣等感に悩み、英語運用に消極的になる。
  2. ニホン英語でも国際的場面で十分に活躍さきる事実を過小評価する。
  3. 他国のノンネイティブの英語変種に違和感をもち、差別的態度を生む。
という弊害が生じていることを指摘されている。これはとても重大なことだと思うのだが、中学高校〜大学での英語教育は残念ながらますます逆の方向に向かっているように思えてならない。

 もう1冊、この春以降に読んだ本の中で衝撃的であったのは

●『日本語に主語はいらない〜百年の誤謬を正す』(金谷武洋、講談社選書メチエ、2002年)

であった。タイトルの「日本語に主語はいらない」論は、いわゆる“三上文法”として私自身もある程度聞きかじったことがあり、その焼き直しかと思っていたのだが、それを超える遙かに新しいアイデアが体系的に論じられていた。特に感銘を受けたのは、「主語不要論」よりも、むしろ、第5章の「日本語の自動詞/他動詞をめぐる誤解」であった。これは、単なる学術上の論争に限られたものではない。どうやら、チョムスキーの生成文法の無批判的な受け入れや、欧米あこがれ型の教育政策の歪みに根本原因があるようだ。このあたり、不定期ながら、私なりに考えを述べていきたいと思っている。
【思ったこと】
_20709(火)[心理]英語教育と日本語文法を疑う(2)学習ツールであればこその文法

 昨日の日記の続き。今回は

●『日本語に主語はいらない〜百年の誤謬を正す』(金谷武洋、講談社選書メチエ、2002年)

を読んで感銘を受けた点を少々。

 この本は、今年の春、生協ブックストアで平積みになっているのをたまたま見かけて購入したものであった。ちょうど文学部の同僚が店内に居たので、「金谷さんってご存じですか」と尋ねたが誰一人知らない。妙なことだと思っていたが、前書きを読んで謎が解けた。なんと、カナダのモントリオール大学・東アジア研究所の教員であり、実際にカナダ人に日本語を教えておられる実践家だったのである。

 外国人に日本語を教えるには、そのツールとして活かせる日本語文法が必要である。ところが、日本でずっと教えられてきた学校文法は、ちっとも役に立たない。助詞の「は」と「が」の区別を教えられない、「あなた英語」を解消できない、などさまざまな問題が持ち上がってきたのであった。

 それを改善すべく金谷氏が辿り着いたのは
  • 三上理論の発展
  • 生成文法批判
  • 自動詞、他動詞の機能対立を、さらに広範な受身や使役も含んでの態(ヴォイス)の問題として捉えなおす
であったと私は読み取った。このうち三上章(1903〜71)氏の理論は、「主語無用論」、「日本語に人称代名詞という品詞はいらない」、「助詞『は』をめぐる誤解」として発展させられた。そしてこれらはすべて、英語を鏡とした文法とは異なった形で体系化されていくのである。学問的評価がどう下されようと、これらは、日本語学習者にとって有用なツールである。理論というのは本来こうあらねばならないと思う。

 金谷氏が第4章の中の「生成文法的アプローチの問題」のなかで強調された点をいくつか抜き書きしておこう。
  • 多くの発表は,.....【中略】.....数学か論理学か,はたまたコンピュータ・サイエンスなのか知らないが,言っている内容が私にはまるで理解不可能なのである。それでも,彼らに共通する姿勢が明らかだった。それは,ひたすら英語を鏡にして,チョムスキーの最新理論を適用することで日本語(や朝鮮語)を説明しようとする姿勢である。[144頁]
  • 母語話者でない学習者を対象にする我々日本語教師にとって,生成文法理論の最大の弱点は,その考察や理論が教室で一向に役に立たない,ということだ。英語を準拠として「かきまぜ」なり,移動なり,変形なりで説明する日本語教育が効果的とは思えない。[147頁]
  • 極めて特殊な言語の英語を鏡にして,普遍性を主張されては,まったくタイプの違う日本語などは迷惑である,と声を大にして訴えたい。深層での普遍性を日本語にもあてはめようと論理学的,記号学的,数学的操作をしたところで,それは何ら客観性を持つものではない。少なくとも日本語教師がとるべきアプローチではあるまい。マルチネ的な具体的な物的証拠がない限り,我々としては「そうかも知れませんが,さあ,証拠もありませんしね」と答えるだけでいいのだ。生成文法最大の弱点は,この「検証不可能性」にあるのだから。[147〜148頁]
  • 深層に潜ったとたんに「何でもあり」になってしまう例として「すべての言語には普遍的に/P/音がある」という大胆な仮説はどうだろう。「いや,○○語には/p/音がない」という報告が必ずなされるに違いない。その時,少しも慌てることはない。「この言語では/P/はないが,/f/音がある。これは深層の/p/が変形したものだ」と答えればいいのだ。[148頁]
  • チョムスキー派の学者には誠に便利な「深層・変形・移動・省略」などだが,そうした分析が客観的経験科学としての言語学とは思えない。再現,検証できない仮説は,仮説で終わるしかないのである。[148頁]
  • マルチネが主張するように,発話の場面の振る舞いこそがデータのすべてである。発話で主語がなければ,その言語には主語がないと言っていいのだ。[148頁]
金谷氏は、上記引用の最後のところでマルチネ[フランスの言語学者、アンドレ・マルチネ。1984年にICUでこの教授のセミナーがあり金谷氏も参加]の優越性を論じておられるが、上記引用に関する限りでは、行動分析学の創始者のスキナーもきわめて近いことを言っている点を付け加えさせていただく。

 上記引用の中で「深層に潜ったとたんに「何でもあり」になってしまう」というのは、心理学の諸理論についても当てはまることだ。「検証不可能性」批判も全く同様だ。だからこそ、私は、日常生活や生きがいに役立つツールとしての「能動主義の心理学」を目ざしているのである。




 余談だが、この本の初稿のタイトルは『日本語・この不幸なことば』、その後も三上氏に敬意を表して『やはり日本語に主語はいらない』というタイトルを考えておられたなどと序章に書かれてある。そんなこともあって、この本を読み始めた際、金谷氏はきっと三上章氏のような、顎がこけてメガネをつけた60歳〜70歳くらいの苦学者のお顔をしているのではないかと勝手に想像してしまった。しかし、カナダ人と結婚されたお話、出身大学の同学年の方に、故・大塚恵・お茶の水大学助教授がおられたという謝辞の記述からみて、じつは私とほとんど同じお年であることが判明した。ネットで検索してみたところ、CAJLE staff profileというサイトの中に、お写真を発見。カナダ人女性にプロポーズした方だけあって、さすがハンサムなお顔をしておられる。
【思ったこと】
_20711(木)[心理]英語教育と日本語文法を疑う(3)自虐英語である限り、会話などできるはずがない

 7/12朝のNHKニュースによれば、文部科学省は、「中学・高校を卒業したら英会話ができるようになる」ことを目ざした英語教育改革方針をとりまとめ概算要求を行うことになったという。「読み書きはできても英語が話せない」という現行の英語教育を改めるというのがキャッチフレーズ。聞き取りのため不確かであるが、その骨子は
  • すべての英語教員に英語検定(英検準一級、TOEFL550点以上)を義務づけ。そのための研修費用の予算を確保。
  • 外国人教員1000人増員のための予算確保。
  • 平成18年度からセンター試験英語でリスニングテストを課す。
ということのようだ。

 英語教育の質を高めること自体は大いに賛成だが、この程度のことで、中学・高校を卒業したら英会話がペラペラになれるとは到底思えない。というか、「英語が話せる」とは具体的に何を意味するのか、明確にしておく必要がある。

 この連載の1回目で

●『アジアをつなぐ英語〜英語の新しい国際的役割』(アルク、1999年)

という本名信行・青山学院大学国際政治経済学部教授の著書を引用させていただいたように、現行の英語教育の最大の問題点は、学習者にネイティブ並みの英語能力の獲得を求めている点、さらに、ネイティブ文化の学習同化も重要視している点にある。
.....そして、この目標の達成が不可能なので、いつまでたっても英語に自信がなく、それを積極的に使用しようとする意欲がわかない。ネイティブと同じように話せないと、ちゃんとした英語ではないと思ってしまうのである。
そして、その結果として
  1. 学習者は無力感と劣等感に悩み、英語運用に消極的になる。
  2. ニホン英語でも国際的場面で十分に活躍さきる事実を過小評価する。
  3. 他国のノンネイティブの英語変種に違和感をもち、差別的態度を生む。
 今回の改革で目ざすところの「英会話」なるものが、ネイティブスピーカーと同じ発音やイディオムを使うこと、あるいは、早口で発音が崩れたような英語の聞き取りを可能にすることにあるなら、これはもう、国際語としての英語コミュニケーション力とは言えない。ネイティブスピーカーに不自由させないように家来として仕える(←「使える」ではないぞ!)ための自虐的英語教育と言わざるを得ない。




 こうした自虐英語にならないために、私はかつて、日本型英語なるものを提唱したことがあった。その後鈴木孝夫氏が、専門的立場から

●『日本人はなぜ英語ができないか』(岩波新書、1999年)

●『英語はいらない』(PHP新書、2001年)

といった著作の中で、日本式英語あるいはイングリックを提唱されていることを知った。『英語はいらない』の第五章では、具体的に
  • 「英語らしきもの」でいけ
  • 三単現のsもいらない
  • イデイオムは使わない
  • 難しい英単語【←多義でないため】の方が易しい
  • 英米人にとっても外国語にする
といった提案がなされており、大いに納得できるものであった。

 もっとも、

●『「英文法」を疑う ゼロから考える単語のしくみ』(松井力也、講談社現代新書、1999年)
●『にっぽん再鎖国論』(岩谷宏、ロッキング・オン社、1982年)

さらに、前回御紹介した

●『日本語に主語はいらない〜百年の誤謬を正す』(金谷武洋、講談社選書メチエ、2002年)

などを拝読すると、日本人が英語を苦手とするのは決して、冠詞、不規則動詞、イディオムなどがあるからではない。もっと根本的に
  • 「モノ」ではなく「コト」として捉える認識
  • 日本語は、「SOV」なんかじゃない。そもそも主語という概念が不要。
  • 自動詞/他動詞概念や、能動態/受動態概念は、日本語では根本的に異なっている
といったことが分かってきた。そういう根源的な違いをちゃんと教えない限り、英会話などちゃんとできるようにはならない、と私は断言したい。また、そのことからの帰結として、日本語を正しく理解していない英語ネイティブスピーカーは、日本人に英語を適切に教えることはできないとも断言しておきたい。




 それから、これも過去のWeb日記で取り上げたことだが、
日本人は英語の読み書きはできるが、英会話はできない。
という認識はゼッタイに間違っている。「英会話ができない」という部分は正しいが、「読み書きができる」などとは到底言えない。これは、私自身が英書講読を担当したり、論文の英語要約で苦労する時に実感することである。

 10年ほど前になるが、実は私自身、申込者の妻の代わりに翻訳の通信添削を受けていたことがあったのだが、ちょっとした英語でも正確に訳すというのは実に難しいことだ。スキナーの英語などは大学の先生でもしょっちゅう誤訳するが、これは内容が専門的であるためではない)。日本人にとって必要なことは、まず第一に、英語を正確に読めることである。リスニングや会話訓練に時間を費やすことで、英語の読解学習がおろそかになるようでは本末転倒、そんなことでは日本はホンマに滅びてしまうぞ。

余談だが、同じ7/12朝のNHKニュースによれば、アメリカの借金は6兆1千億ドルに達しているという。アメリカを敵にまわすことはとうていできないが、いつまでも米国依存ではやっていけない。やはり「アジア英語」とは何かを理解することが大切だ。

 それと、好むと好まざるとにかかわらず、中国はいずれアメリカと肩を並べるまでの経済大国になるだろう。中国人と日本人がなんで英語で会話しなければならないのか。漢字を紙に書きながら、日本人は漢文で、中国人は「中国式日本語」でしゃべればそれでよいではないか。そのためにも、日本語をきっちり学びたいというアジア諸国の学生のために、日本語教育施設を充実させる方策が望まれる。
【思ったこと】
_20712(金)[心理]英語教育と日本語文法を疑う(4)「自信英語」のカギは「Better is the enemy of good.」

 昨日の日記の続き。初めに、昨日取り上げた英語教育改革の話題だが、7/13朝までに、ネットニュースや新聞記事から、より詳しい情報を得ることができた。それらを要約すると:
  1. 「英語が使える日本人の育成のための戦略構想」と名付けて遠山文科相が12日に発表。
  2. 英語教員は英検準1級、TOEFL550点、TOEIC730点以上を目標。来年から5年間で現職教員6万人を能力別に研修。
  3. 年100人程度の教員には海外の大学院で長期研修の機会。TOEICなどの点数を採用条件や評価項目に使うよう教育委員会に求める。
  4. 英語を母国語にするネイティブスピーカーを正規教員として3年間で中学校に300人、将来的には中学・高校で計1000人を配置。週1回以上は外国人が教えるようにする。
  5. 中学卒業時で英検3級、高校卒業時で英検準2級か2級。大学卒業時には「仕事で使える」程度の英語力を身につけることを目指す。
  6. 2006年度から大学入試センター試験に、英語を聞き取るリスニングテストを導入する。
という骨子のようだ。

 昨日も述べたが、「英語が使える」教育改革はぜひとも必要。但し、「使える」というのが、ネイティブスピーカーに不自由させないように家来として仕える(←「使える」ではないぞ!)ための自虐的英語教育に向かうなら断固として反対する。日本人が日本人の誇りを失わず「自信を持って」使える英語教育になることに期待したい。

 その観点から言えば、昨日も述べたように、日本語と英語の本質的な違いが理解できないような「英語を母国語にするネイティブスピーカー」に高い給料を払っても改革ができるとは思えない。週1回の集団レッスン程度のことなら、TVやラジオ、CD、ネットを通じて練習させれば済むことである。

 大学入試センター試験にリスニングテストを導入することについては、公平な受験機会をどう保証するのかが課題となるだろう。岡大ではだいぶ前から、英語の個別学力試験にリスニングテストを導入しているが、カセットテープがちゃんと動くかどうか、音量は適切か、座席の位置による不公平は無いかなど、非常に気を遣う。これが全国一斉となると、さらに不公平が著しくなるだろう。「リスニングテスト実施にトラブルが発生した時は当該部分を全問正解と見なす」とすれば済むように思えるが、これでは、トラブルが発生せずリスニングテストをちゃんと受けた受験生のほうが相対的に不利益を受けることになる。それと、「英語が使える」ということをそのような形でテストすべきかという根本問題が別にある。これは次回以降に述べる。




 さて、昨日の日記では「自虐」英語教育を批判した。ではこれに代わる「自信」英語教育はどういうものだろうか。昨日も述べたように日本型英語なるものを義務教育の現場に導入することは一案であろう。鈴木孝夫氏の提唱する「イングリック」も同様だ。しかし、これらは我々が英語を発信する時に使われるものだ。英語で書かれた文献を読む時には、やはりネイティブの基準に合わせなければならないという点でジレンマが生じる。

 例えば、不規則な過去形は全廃すべきだという主張から、「go」の過去表現

●I went to her apartment.

と言うべきところを

●I did go to her apartment
●I goed to her apartment

と教えれば、とりあえず「went」という不規則な言葉を覚えずに済むので学習の節約になるだろう。しかし、ネイティブが書いた英文の中に「went」があった時には、改めて辞書を引かなければならない。この程度の小手先の改革では不十分であるように思う。

 これに対して、昨日も引用した

●『アジアをつなぐ英語〜英語の新しい国際的役割』(アルク、1999年)

という本名信行・青山学院大学国際政治経済学部教授の著書では、現実的な英語教育(学習)モデルとして次のような指針が提唱されている[133〜134頁]。長谷川のほうで要約させていただくと
  • 社会言語学的前提:
    1. 英語は多国間コミュニケーションの言語である。
    2. 英語の国際的普及は必然的に多様化を生む。  (インドのマクドナルドはビーフを使わない!)
    3. 共通語は多様な言語である。
  • その結果:
    1. ニホン英語は通じる。
    2. 役に立つ英語は使える英語でなければならない。
    3. Better is the enemy of good.
という内容になるかと思う。

 長谷川がかつて提唱した「Japenglish」や鈴木先生の「イングリック」とやや異なるのは、教える段階では、“「間違い」を教えるのではない”。「ニホン英語というのは日本人が英米英語(あるいはその他の国際標準英語)を見本に勉強し、その結果として獲得した英語パターンなのである。」と考えている点だ。しかし、ノンネイティブ・スピーカーの英語にはネイティブ・スピーカーが手をつけていない側面を開発している部分もある。「重要な課題はその通用効率を高めることである。」というわけだ[139頁]。

 こうした観点にたって、「自信英語」を使うためのキーワードになると思われるのが、

●Better is the enemy of good.

というイタリアの諺だという。その意味するところは

よりよいものを求めることはけっこうだが、いまここにあるよいものを犠牲にしてはならない。

 長谷川のほうでさらに解釈させていただくと、母国語でない英語を学ぶ我々にとってネイティブそっくりの「完全な英語」を使うことは永久にできない。今はヘタだからなどと遠慮しているといつまでも使えるようにはならない。向上を求めること自体は結構だが、そのことにとらわれず、いま持ち合わせているものを常に「最善」と考えて活用することが大切だという意味かと思う。

 じつはこの発想は、英語学習・使用ばかりではない。例えば障害をもった人はリハビリに励み、病気にかかった人は治療に専念し、回復後の充実した生活を目ざす。そのこと自体は意味があるのだが、今現在の生活が不自由な状態であるからといって、そのこと自体は不幸の原因にはならない。「Better、better...」にばかり囚われていると、いま現在の良さを見失ってしまう。狭いアパートではイヤだ、広い邸宅に済みたいと思いつつ、やりたいことをすべて我慢して住宅資金を稼ぐだけの生活をしている人も同様。向上は大切だが、それ以上に、いまこそが大切である。
【思ったこと】
_20713(土)[心理]英語教育と日本語文法を疑う(5):選抜試験は「自信英語」の最大の敵かも/電子辞書アリの試験にすべき

 昨日の日記では

●『アジアをつなぐ英語〜英語の新しい国際的役割』(アルク、1999年)

という本名信行・青山学院大学国際政治経済学部教授の著書から、

●Better is the enemy of good.

その意味するところは

よりよいものを求めることはけっこうだが、いまここにあるよいものを犠牲にしてはならない。

というイタリアの諺を引用させていただいた。勉強と趣味という違いはあるが、このことは、囲碁、将棋、オセロ、麻雀などで遊ぶ時にも当てはまるのではないかと思う。

 最近TVアニメ「ヒカルの碁」の影響で人気が出てきたと言われる囲碁など、ルールそのものはきわめて簡単であり、要するに「たくさん置いたほうが勝ち」という勝敗ルールと、禁じ手(自殺手など)さえ理解できれば誰でも遊ぶことができる[2001年5月2日の日記参照]。上達するには複雑な定石を覚えなければならないが、それを知らないからといって楽しめないわけではない。

 英語でも似たところがあって、2年前にパキスタン〜中国を旅行した時もそうだったが、お互いに下手な英語だと逆に話が弾むことがある。




 さて、ここで留意しておきたいのは、「Better is the enemy of good.」という精神は決して向上を否定していないということだ。つまり、より良い表現(←必ずしもネイティブが使う表現ということではない、古くさくてもよいが、より正確に情報を伝えられる表現という意味)があればそちらに乗り換えること、また、誤解を招く表現は慎むという切磋琢磨のプロセスがあってこそ向上はもたらされる。それを可能にするのが英語教育の現場であり、また、国際交流、短期留学などの機会であろう。

 しかし、そのような向上は、あくまで

●改善すれば得になるが、改善しなくてもペナルティは課せられない。

という「好子出現の随伴性」の中で「分化強化」されていくべきものである。間違えるたびにダメだダメだと怒られていたのでは萎縮してしまって、「英語を使う」行動そのものが「弱化」されてしまうだろう。だからこそ、1999年10月23日以降の連載では、「そうとも言う英語」(=「あなたの表現は正しいかもしれないが、日本型英語では私の表現は誤りとは見なされていない。文句あっか。」という態度)の必要性を説いたのであった。

 となると、入試などの選抜試験の手段として英語を用いることは、「自信英語」を使うことを逆に妨げてしまう恐れがある。なぜならば、受験勉強というのは、少しでも点を取って合格可能性を高めるために行う勉強である。そこでは

●改善すれば得になるが、改善しなくてもペナルティは課せられない。

などと悠長なことは言ってられない。

●改善すれば得点が増え合格可能性を高めることにるが、改善しなければ得点は取れず、不合格という不利な結果を招くことになる。

という「阻止の随伴性」で義務づけられ、結果的に英語使用の自発頻度を低めてしまう恐れがある。



 それから、これは少し別の話題に移るが、「自信英語」を使うためには、いま頭の中に持ち合わせているものだけでなく、身の回りにあるものは何でも使って良いという寛容で柔軟な環境作りが必要ではないかと思う。

 例えば、英語のスペリングを正確に覚えるために多大な時間を使うというのは、今の時代、本当に必要なことなのだろうか。今では、ポケットに入るような電子辞書が安価で手に入る。ワープロで英文を書く時には、常駐型の辞書が使えるし、スペルチェックだってやってくれる。中学・高校生は、そんなことの暗記のために貴重な時間を使うべきではない。いっそのこと、試験中でも電子辞書使用自由にしてしまえばよいのだ。

 いろいろ書いてきたが、中学・高校の英語教育の中では、ネイティブの真似をさせることではなく、日本語と英語の本質的な違いがどこにあるのかをじっくり教えることに時間を費やすべきだ。この視点に立って、次回からは、

●『日本語に主語はいらない〜百年の誤謬を正す』(金谷武洋、講談社選書メチエ、2002年)

を引用しつつ、この問題を考えていきたいと思う。
【思ったこと】
_20714(日)[心理]英語教育と日本語文法を疑う(6)日本語の自動詞と他動詞はどうやって区別できるのか

 連載の6回目。今回より

●『日本語に主語はいらない〜百年の誤謬を正す』(金谷武洋、講談社選書メチエ、2002年)

を取り上げていきたいと思う。

 7/9の日記でも述べたように、この本は、今年の春、生協ブックストアで平積みになっているのをたまたま見かけて購入したものであった。著者は、カナダのモントリオール大学・東アジア研究所の教員であり、私とほぼ同年代の方のようだ。

ところでこの本だが、ネットで検索したところ、毎日新聞2月10日付朝刊で、藤森照信氏が書評を書いておられることが分かった。しかしその内容は、
助詞『は』の働きは節を越え(コンマ越え)、文さえ越える(ピリオド越え)ことができる。
という(金谷氏のオリジナルではなく)三上文法の紹介に終わっており、この本を正当に評価しているとは言い難い。「主語はいらない」というタイトルに惑わされたのか、後半までお読みになっていないのか分からないが、この本の本当の凄さは、

●第1章日本語に人称代名詞という品詞はいらない
●第2章 日本語に主語という概念はいらない
●第3章 助詞「は」をめぐる誤解

という前半部分にあるのではなく、むしろ、

●第4章 生成文法からみた主語論【7/9の日記で言及】
●第5章 日本語の自動詞/他動詞をめぐる誤解

という後半の2章にあると私は思う。そこで、この連載でもまず、5章で感銘を受けた点から述べることにしたいと思う。

 5章ではまず、自動詞と他動詞についての誤りが明確に指摘されている。印欧語を手本に作られた学校文法を疑わない我々は、
  • 他動詞は直接目的語を持つ。日本語では格助詞「を」を取る動詞
  • 他動詞からは主客を逆転させた受動文が作れる
で区別ができると信じて疑わない。じっさい英語を習えば、目的語を持つ動詞は間違いなく他動詞であるし、学校では、目的語を主語にした受動文を作る問題をイヤというほどやらされてきた。

 しかし、もし上記の基準が正しいとするならば、日本語では格助詞「を」をとる自動詞や、自動詞を使った受け身文など存在しないはずである。

 金谷氏はそれらに対する反例として、まず、格助詞「を」をとる自動詞の例:
  • (92j)義経が安宅の関を通った。(自動詞:通る/他動詞:通す)
  • (93j)夏夫はすぐアパートを出た。(自動詞:出る/他動詞:出す)
  • (94j)フランス語を春子に教わった。(自動詞:教わる/他動詞:教える)
  • (95j)秋子からこの荷物を預かった。(自動詞:預かる/他動詞:預ける)
  • (96j)橋本先生は学校を変わった。(自動詞:変わる/他動詞:変える)
続いて、受身文が作れる自動詞文の例:
  • (97j)朝の3時に冬彦に来られた。(能動文:朝の3時に冬彦が来た)
  • (98j)最愛の祖母に死なれた。(能動文:最愛の祖母が死んだ)
  • (99j)雨に降られた。(能動文:雨が降った)
を挙げておられる。もちろん、何でもかんでも例外としてしまえば、ご本尊は揺るがないが、それでは文法の存在価値はない。ではどうすれば、簡潔かつ明快で、外国人の日本語学習者にも分かるように説明できるのだろうか。

 詳しい紹介は避けるが、金谷氏は、日本語では語彙そのものに自/他動詞の対立/区別があるとした上で、日本語では「通る/通す」「出る/出す」といったような対立のあるもののみを自動詞/他動詞と同定すべきだと説く。そこには、助動詞や形態素と姿を変えて再使用(リサイクル)された2つの動詞「する」と「ある」が介在している。日本語の受身文というのは単なる「主語が行為者か被行為者かの視点」ではなく、「ある状況における制御不可能性」、「コントロールできない状態」を意味するものだ。だからこそ、受身のほかにも、可能・尊敬・自発の意味が含まれるのであり、だからこそ、能動文が他動詞文である制約は不要ということになると説いている。

 こうした、自動/他動の機能の差は、上にも述べた「する」「ある」に端を発している。つまり
  • 日本語の「ある」は「人間のコントロールの利かない自然の勢いと状態」を表現。 マロリーにとってはエヴェレスト登山はもう抗えない必然と化していたわけだ。「ある」を含む自動
  • 「する」(古形「す」)は「人間の人為的,意図的な行為」を表す
という違いに根源があるのだ。1つだけ例を引用すると、
「橋本先生は学校を変わった」も面白い例だ。これと,他動詞文「橋本先生は学校を変えた」はどう違うのだろうか。ここでもやはり意図性が関わっている。自動詞文の方は,多くの場合は「転勤になった」という意味だろう。つまりこの先生にはコントロールの利かないレベルの決定と思える。あるいは問題のある先生だったのかも知れない。一方,他動詞文の方では,がらりとこの先生のイメージが変わる。元気一杯,やる気満々の先生,それも校長先生なのではないか。人為的,意図的,積極的に学校の雰囲気をがらりと変えてしまった,という意味になる。[p.202]
 金谷氏がさらにスゴイと思うのは、以上述べた自動/他動の機能差にとどまらず、(1)受身/自発/可能/尊敬(2)自動詞(3)自or他動詞(4)他動詞(5)使役という5つを態(ヴォイス)の連続線の全体像として体系的に整理してしまった点である。そればかりか、
  • 連用形がI-で自動詞,E-で他動詞
    立ち/立て 育ち/育て 縮み/縮め 開(あ)き/開け
  • 連用形がE-で自動詞,I-で他動詞
    焼き/焼け 切り/切れ 破り/破れ 割り/割れ 折り/折れ 脱ぎ/脱げ 砕き/砕け ほどき/ほどけ
というように、なぜ、『焼く---焼ける』と『続く---続ける』のように、同じ型でありながら,自動/他動の関係が逆になるのか、という、日本語文法研究の長年の謎まで明快に説明してしまった。これはスゴイと思う。

 時間が無くなったので、今回はここまでとするが、上記で「立ち/育ち/縮み/開き」と「焼き/切り/破り/割り/折り/砕き」というグループに、それぞれ意味上の共通点があることにお気づきだろうか。金谷氏が解明した答えは次回のお楽しみということで....。

7/15追記]
日本語ものがたり(第5回)に、金谷氏御自身による「連続線としての受身/自・他動詞/使役」についてのエッセイがある。
【思ったこと】
_20715(月)[心理]英語教育と日本語文法を疑う(7)日本語は「自然にそうなる」と「意図的行為」を語彙そのもので区別する

 連載の7回目。昨日に引き続き

●『日本語に主語はいらない〜百年の誤謬を正す』(金谷武洋、講談社選書メチエ、2002年)

の第5章を中心に取り上げていきたい。初めに昨日の日記で
  • 連用形がI-で自動詞,E-で他動詞
    立ち/立て 育ち/育て 縮み/縮め 開(あ)き/開け
  • 連用形がE-で自動詞,I-で他動詞
    焼き/焼け 切り/切れ 破り/破れ 割り/割れ 折り/折れ 脱ぎ/脱げ 砕き/砕け ほどき/ほどけ
というように、なぜ、『焼く---焼ける』と『続く---続ける』のように、同じ型でありながら,自動/他動の関係が逆になるのか?
というクイズの正解から。

 念のため、このクイズの意味をもう少し説明しておくと、動詞の連用形という意味で「ます」を繋げて比較した時、

●立(ます)、育(ます)、縮(ます)、開(ます)というような自動詞は、語尾が「-i」となっている。-------------《Aグループ》

●これに対立する他動詞を同じく「ます」をつけて連用形で表すと、「立ます」、「縮ます」、「開ます」というようにすべて、語尾が「-e」となっていることが分かる。この限りでは、「-i」は自動詞、「-e」は他動詞でありそうな気がしてくる。ところが、

●焼き(ます)、切り(ます)、破り(ます)、割り(ます)、折り(ます)、脱ぎ(ます)、砕き(ます)-------------《Bグループ》

などは、みな「-i」となっているのに他動詞だ。いっぽう、これに対立する自動詞は

●焼け(ます)、切れ(ます)、破れ(ます)、割れ(ます)、折れ(ます)、脱げ(ます)、砕け(ます)

は、「-e」となっている。AグループとBグループにおけるこうした逆転は偶然なのだろうか。

 金谷氏はこれらを次のように明解に説明している[214〜216頁]。
  • Aグループの動詞の自動詞は「立ち/育ち/縮み/開き」と,内部の「変化・成長」を意味する動詞群である。これら自動詞が五段動詞でI-を持ち,他動詞の方はE-を持つ下一段動詞である。
  • Bグループはその逆だ。こちらでは五段動詞でI-を持つのは他動詞で意味的には外部に対する「破壊性」と【長谷川補注「を」の誤植?】強く持った動詞である。「焼き/切り/破り/割り/折り/砕き」など,対象となるものはその後に形状が変えられる場合が多い。自動詞の方はE-を持つ下一段動詞である。
  • 意味の上からはAグループの動詞のペアは「立ち/立て」「縮み/縮め」など,「自然にそうなる」という内部の「変化・成長」,つまり自動詞の方が「普通・正常」な事態であり,「異常」な状態は,人為的に縮めたり育てたりする「意図的行為」と見るべきであろう。
  • 【Bグループ】では「意図的な行為」の他動詞(焼き・切り・割り・壊し)の方が「普通」で,意味的に無標と言える。自動詞の方が「異常」であろう。それと並行して,形の上でも無標なのは五段動詞の他動詞の方なのである。
 確かに、世の中の変化には、人間の手を加えなくても勝手に変化する現象がある一方、人間が働きかけて変化を「押しつける」ような現象のあることが、素朴に理解できる。例えば、植物は勝手に「立ち」、「育ち」、「開き」、「縮む」。それを収穫した人間は、実を「焼き」、「切り」、「焼き」、「壊して」しまうのである。もともと自然にあった動詞のほうが、五段動詞(連用形は「-i」)となり、不自然ながら、後から自動・他動を逆転させた表現として生まれた動詞のほうが、下一段活用(-e)となるのは納得がいく。ちなみに、これについてはさらに、日本語にはもともと「e」という発音はなかったという傍証もある。

 以上、および前回述べたこを合わせ、金谷氏は、(1)受身/自発/可能/尊敬(2)自動詞(3)自or他動詞(4)他動詞(5)使役という5つを態(ヴォイス)の連続線の全体像として体系的に整理することに初めて成功した。日本語の文法のことは全くの素人である私だが、この功績は計り知れないものがあると直感する。

 金谷氏のこうした成功の秘訣は、御自身も205頁で述べておられるように
  • (あ) (かな書きではなく)訓令式ローマ字で表記する。
  • (い) (終止形ではなく)連用形を使用する。
  • (う) 自/他動詞はお互いに形態的対立を持つものに限り,しかも片方が「す」か「ある」かで有標である場合,それだけで自他はそれぞれ同定されるから,ペアのもう一方は考慮外とする。
  • (え) 自/他動詞の考察をより広範な態(ヴォィス)の一環として捉える。
という着眼を持ったことにある。




 さて、以上は、心理学や行動分析学とどう関係してくるのだろうか。ここからは個人的な意見になるが、日本語というのは、
  1. 人間のコントロールの利かない自然の変化
  2. 人が手を加えることによって生じる変化
を素朴かつ本質的に区別できる言葉である、と私は思う。

 1.はいっけん、因果関係を詮索せず、流れに身を任せる受身的なとらえ方のように思われてしまうかもしれない。しかし、たった1つの原因だけで生じる現象などというものは、むしろ世の中には少ない。無限に近い要因が多様に相互作用して生じる現象をありのままに捉えることができるという点では、むしろ遙かに科学的である。また、そのことによって、変化を「待つ」、「ありのままに受け入れる」という共生のライフスタイルが生まれてくるのだ。そして、その一方の2.には、人間の能動的な働きかけを重視するオペラントがある。日本語はそれらのバランスを本質的に表現できるという点で、印欧語より遙かに優れていると言えるかもしれない。




 なお、本書を拝見した限り、金谷氏は「日本語はコト、英語はモノ」という視点は特に重視しておられないようだ。一般的には、上記1.の「自然の変化」は「コトの変化」であり、一方、上記2.は具体的な「モノ」に対する働きかけになる場合が多いとは思う。但し、岩谷宏氏が『にっぽん再鎖国論』(1982年、絶版)で指摘しておられるように、日本語では、いっけん「モノ」として存在しているものさえ、コトとして認識してしまう。例えば
  • 目の前にコップは、実は、「物」としては存在し得ない。コップという社会生活上の概念、あるいは原子等の特殊な様態、すなわち「事」としてしか存在し得ない。
  • 「聞こえる」に相当する英語は、ないのである。音源を主語とした場合、英語では「鳴っている」等となり、"鳴ってる音が人の耳に達している"という「事」を、どうしても表すことができない。受動形は特殊なケースであって、日本語の「見える」、「聞こえる」のような、第一級ふつう語、ではない。音源と聴者とが音波によって顕在的に結ばれているとき、そこには、ひとつの「事」が成立しているが、これを、英語では表せないのである。すなわち、英語では、どちらか一方の、「物」の動作(動詞)としてしか表せない。[44〜45頁]
こうした「モノ」「コト」視点と、金谷氏の「受身-自動詞-自or他動詞-他動詞-使役」の連続線を合体させれば日本語は、それを習う外国人はもとより、われわれ日本人にとっても、より分かりやすい言語になるのではないかと思う。

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